先日の『奥のほそ道』への言及が雑だったので改めて言うと、太平洋戦争の日本の暴力にだけスパンを当てた物語じゃなくて、もっとそれこそ太平洋戦争から2、3世紀まえから続く(日本のだけでない)帝国主義の暴力の世紀みたいなものをフラナガンなら描けたのではないか、と思う時がある でもまああれは泰緬鉄道の小説だったし、実際書けたんだろうけど、フラナガンはそういう野暮ったい「中立性」とか、「普遍性」と呼ぶにはダサすぎる汎用性みたいなものを一切切り捨てたのかな~と読んでいて 感じた 感想 19時
★先生のメルキト漫画再掲に付記されている「史料に基づきません」は歴史の提示の一つの手段として有効だと感じる それだからこそ描ける過去の風景もある 提示できる荒涼とした世界がある フィクションとして再話することの意義がある 人物たちを規範の軛から解放できる/できないことを描くこと… ★古書高騰している稀覯資料本を"所有"していることに価値を感じたり、作品の時代考証が正確か/間違っているかの話をしているだけの不気味な状況には陥らないようにしている もちろんこれらは必要なことではあるが… #『天幕のジャードゥーガル』 歴史・時代もの | 感想 | 思念・思索 21時
私は豊川稲荷東京別院が好きなのですが、あの寺院は荼枳尼天(ダーキニー)を祀っていて 『モンゴル帝国 草原のダイナミズムと女たち』にダギ・ガトンの「ダギ」はダーキニーのこと、とあって驚いてしまった 世界が繋がっている #『天幕のジャードゥーガル』 感想 20時
李清俊『あなたたちの天国』めちゃくちゃ好きなんだけど、帯に「韓国の大ロングセラー」とあって これは逆説的な言い方になるけど、『あなたたちの天国』がロングセラーになる社会がどのようなものなのかが気になる 内容的に日本ではロングセラーならない気がするので… どのような社会、というのは あの小説のバックグラウンドを共有できる社会意識があるということなのだろうか…どのような受容をされて大ロングセラーになっているのだろうかという ハンセン病とか障害とか生とか死とか… 感想 | 思念・思索 19時
映画「吉原炎上」に、遊女が客との喧嘩で怒り狂って暴れまわって、カミソリを振り回した挙句、通りがかりの男の人を勢いで切ってしまって、そこでつと冷静になるんだけど 周りはすでに野次馬だらけで、無言でただただこちらを見つめていて >遊女は行き場もなく収まりようもなく「お前ら、あたしが死ぬのを待ってるんだろ、死んでやるよ」「なんだよ、あたしの身体を喰い物にしてるくせに…」と叫んでカミソリで自らを切るシーンがあるんだけど >>この「女郎が狂言で死を遂げることを"期待する"世間のまなざし」みたいな観点はマジですごい こういう生を期待されて、こういう死を期待された存在としての遊女… >客船タイタニックは沈むことを期待されいる >とはいえしかし、遊女とかパンパンとかって、こうやって面白く客体化され続けてきた感じもする 感想 18時
映画「ラスト・コーション」でスパイのヒロイン・佳芝の偵察相手だった特務機関の重鎮の易が、彼に近づいていたのは美しいただの女ではなく美しいスパイだと判明した時に彼女の処刑の認可を出すんだけど、その処刑許可の書類のインクがとてもとても綺麗な青で美しくて、私はその青に似た万年筆用インクのことをいつも「処刑色」と呼んでいる 感想 | 思念・思索 20時
『ねじ曲げられた桜』という本 特攻隊員となった学生たちは豊潤な知性があり軍国主義を野蛮と軽蔑すらしていた が、戦争になり国から「桜のように美しく散る」という悲劇的で浪漫的な死の大きな物語を提供されたときに その背景にあった軍事的意図までは見抜けなかったし、魔的な魅力に抗えなかった著者は本書を執筆する時に「なぜ特攻隊員がこういった"運命"を"自由選択"したのか」が重要だ、という指摘を受けたらしい。これは極めて重要だと思う。 一人の若者がたとえ軍隊に嫌悪感を抱いていても、結局は航空機に乗って"美しく""花のように散る"ことに疑問を抱かなかった。何故この話をしているのかというと、何度か言及している通り、なぜボラクチンが自らの身と夫の命とを危うくしてもトルイを毒殺することを"運命"と考えて"自由選択"したのか、という話だから つまり国家や時代という〈大きな枠組み〉が個に求めた犠牲だったように思うジブリ映画「風立ちぬ」でピラミッドのある世界/ない世界のどちらを選ぶか?と聞かれて「ぼくは美しい飛行機を作りたいと思っています」と答えた堀越二郎の行きついた結末 一個人がただ美しいものを求めただけ、それが大枠の国家にどう誘導され利用されていたのか、が『ねじ曲げられた桜』だったのでボラクチン様もほんとう…「国の良い行く末」を求めているだけなんですよ…ホント… これだけ見ればトルイの死だってほんとうに美しい犠牲だし、トルイの殺害も美しい所業ですよボラクチンがトルイを毒殺したのは彼女が運命だと思ったからで、大カトゥンとしてやるべき責務をやったのだと言う、それは自由志願だとしても明らかに時代や国家が要請したものであり、私はそれをさみしい風景だとおもう だから妙にこだわってしまう…ボラ様にあなたはそんなことする必要なかったんだよ、毒殺は異常行動なんだよ、でもあなたが悪いんじゃなかったんだよ、どこかでなら血族みんなで仲良くなれる道もあったはずなんだよ…と言ってやりたい 現パロで という話 13世紀のモではもう無理、なのでそういうさみしい風景が描きたい 私自身、歴史もの・歴史創作オタクでもあるから あり得たかもしれない世界、あり得たかもしれない祝福、無かったことにされて消されてきた痛みや苦しみ、そんなかつての歴史の実相と虚構を交え、漫画というフィクション手法で再話を試みること…その点で言えば 天ジャは厳密な歴史考証アリ!というよりも、実相と虚構を交えたこの再話を試みること、それにより滲み出す、痛みや悲しみや抑圧の姿が重要であって 馬は左から乗るのが常識ですよ!とかこの時代にこの人物が生きてるのはおかしいですよ!とかはむしろ野暮…と感じるタイプの作品だ歴史創作・歴史ものに対して、事実と考証の話だけをし続けること、高い参考書籍・希少な史料を持っていることが重要だとすること…等に限界を感じる時がそこそこある自分の手を汚した理由が国家のため、モンゴル帝国のためなんて、あまりにさみしすぎるじゃないか、お前はそんなことのためにあっていいのか、そうあっていいのか、そんな女じゃないだろう、ボラクチン、みたいなことを誰か言ってやるべきだったし、でもオゴタイは絶対そんなことをボラクチンには言わずなぜなら2人は大カアンと大カトゥンだから。この2人の間に流れるさみしい風景を、この時代の空気を、責務というものを、後の時代から、現代からフィクション漫画として再話するということ「カインとアベルの円舞曲」という本を発行したくて、そのためにオゴボラ漫画を描く…はずなのに考えがまとまっていなかった 自分で喋っていてまとまってきたかもしれない 2人のあいだにあるのはこれだ私はボラクチンにはそれではさみしすぎる、と言えるけれど、オゴタイという大カアンに対してどんな観点を抱いているの未だわからない 勿論オゴタイも同じくさみしい、だけどボラクチンは積極的に行動に出ているのに対して、彼はそれを追認している姿勢を取っているだけで そして大カアンであり… #『天幕のジャードゥーガル』 #「カインとアベルの円舞曲」(天幕のジャードゥーガル) 感想 06時
「ここで幸せになったら俺の勝ち」の勝ちという言葉を、つい帝国と重ね合わせてしまって、皇帝の独善的で強権的に捉えすぎているだけで……実はもっと素朴な、オゴタイの個人な達成感の現れた言葉だというだけなのかな 「国家の勝利」ではなくて、ただの、一人の人間として勝ったという喜びの感情「勝ち」といいますけども、「お前たちがここで幸せになったら俺も幸せなんだ」と言っても主旨はそれほど変わらないないはずで、勝ちがいけない勝ちという言葉がでもオゴタイに求められているのは個人的な幸せではなくて、国家の長として達成したかどうかなのでだから幸せ、ではなく勝ちなのだろう(内容的に言うのを逡巡する話題だけど)「帝国に同化しろ」という趣旨の発言なのかなと考えていたが、これは近代から、あるいは後世から見た帝国主義的な発想であって、本当に裏のない、純粋に弱者も幸せになるような国家を目指しているだけなのかも素人なので仔細に詳しくないんだけど、日本語ではimperialismの訳が「帝国主義」で、この「帝国」という言葉の選びが良くない影響を及ぼしている気がする…すぐオタクは考察とか解釈とか言うからな 裏を読みすぎかも 本当にオゴは民の幸せを願っているだけかもしれないオランダ語のケイゼル(皇帝)+レイク(国)の訳語「帝国」(皇帝のいる国)が18世紀に日本で生まれた。 また19世紀に英和辞典でEmpireが「帝国」と訳された。これはラテン語のimperium(命令権)から来ている単語。が、転じて古代ローマで命令権保持者が派遣される、古代ローマの権威が及んだ属州・戦地もimperium呼んだ。Empireの語源がimperium。つまり後者は軍事指揮権や版図の力点の強い単語だった。 が、訳が一緒だったので膨張主義のimperialismも帝国主義となった。(と『朝鮮王公族』で読んだ)だから、皇帝や帝国という単語から「近代」を脱色して読み解かないと 皇帝の国、帝国主義imperialism、皇帝の国が対外膨張を目指している…がごちゃ混ぜになって何が何だか分からなくなるのかな…と素人なりに感じている あそこは13世紀のモなので(この分野は無知なので間違いはご容赦…)「ここで幸せになったら俺の勝ち」に「同化」というニュアンスを感じたのは、非常に近代的な考えなのかも、という話 #『天幕のジャードゥーガル』 感想 09時
『「国語」という思想』に「非日本的日本語」という言葉が出てきて良いな私はこういう、非日本人・日本人の、日本語によってはいるが、日本的あるいは標準語的な価値観とは別としてある日本語、みたいなものに惹かれている「大衆」的とも呼べる日本的な価値観を選択せずに、しかし明確に日本語を選択する、みたいなものやっぱり浅くでいいので外国語もやるか 日本語しか知らないのに日本語の話をしていても限界がある気もする李良枝、リービ英雄、温又柔、金時鐘…の文学にはそういう非日本的日本語が詰まっているんだけど、日本人の書く文章にも非日本的日本語というものは確かにあるよなあと最近は感じていて、私もここを明確にして読んだり書いたりすべきかも 歴史・時代もの | 感想 | 思念・思索 08時
いま沖縄戦の「集団自決」の本を読んでいて、この何かが天ジャに接続しそうになっている沖縄戦の「集団自決」の中には「万が一生き残ってしまって『鬼畜米兵』に凌辱されるなら、自分たちで死んでしまったほうが/愛する家族に殺された方が良い」みたいな類の記述が出てくるため…つまり、一見は家族間の情だけに見えるものの、背景には大きな国家の規範が存在している、というものがあって 私は天ジャをそういう物語だと捉えているため…これは別に沖縄戦をエモーショナルに消費したいという意味ではないです「集団自決」を「”戦争”を不可避な宿命のように受けとり、それを相対化することができずに、島が孤立しているというような自然的条件と、共同体に加えられる権力の意志や”戦争”などを同じように考え、あらがい難いものとした共同体成員の認識のありかたに原因は求められなければならず、「共同体の生理」をそのような方向に巧みに機能させた支配のありかたこそ問われなければならない」とした岡本恵徳の言葉 ぼんやり反芻している…え⁉️天ジャって家族一族と国家制度の話だと思っているんですけど‼️オゴタイが加害者男(…)なんじゃなくて、共同体の生理がというものが"そう"あって、だから皇帝すらもそうあるべきしかなかったんじゃないか?『バトル・ロワイアル』同級生とバトルする…というセンシティブな小説、というイメージばかりだけど、最終部で「人間がシステムのために死ぬのは異常だ」という台詞があって 実はここまで直截的な指摘はなかなか希少だと感じる結局人類はシステムのために死に続けてきたじゃないか?という想いが消えない… 好きな本?もちろん『セカンドハンドの時代』ですが…今書いている天ジャ二次小説、謎過ぎるけど、結局誰かに聞きたいのは(あえてこの言い方をするが)「皇帝って『親ガチャ』成功なのか?」という話だ #『天幕のジャードゥーガル』 #「血族の災厄」(天幕のジャードゥーガル) 感想 16時
ドレゲネの合意がないが、合意がないというのならオゴタイにもないだろ…と思うし、なんとなく竹村和子『フェミニズム』を思い出したので読み返している (ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る #『天幕のジャードゥーガル』 引用 | 感想 19時
えがかれている状態は偏見のもとに再生産された誇張や悪趣味な笑いや仮の実相でしかない、つまり土台にある大前提が完全に狂っているのに、そのらしさというかリアリティ風味をリアルとか社会派とか「考えさせられた」みたいな言い方をする…みたいな状態が福祉の領域に関わるものだと割と散見される気がする 感想 | 思念・思索 10時
(ツイート埋め込み処理中...)Twitterで見る 嶋田双葉「冬服の姫」読了 少女と、母と、父と、父の設計の不具合で壊れたジェットコースターに乗って死んでしまった母親の遺児の娘との4人との奇妙な同居話だった 「ずっと一緒にいようよ、真穂」 わたしは銀河鉄道のジョバンニみたいなことを口走った。 「ずっと一緒にはいられないんだよ、花」 真穂は静かに手袋をはずした。 「そう、そうだよね」 わたしはうろたえ、葉をふるいおとした木の数をかぞえた。 「マルコ・ポーロがみつけた、不思議な街の話しようか」 しゃがみこみ、真穂はいった。 わたしは突っ立ったまま、うなずいた。 「その都はふたつの世界でつくられているの。ひとつはね、回転木馬やサーカステント、観覧車、射的場、そんな、遊ぶためだけの広場。そうして、もう半分は学校や工場や病院、お役所とか、大理石の立派な建物のかたまり。半分は動かない。半分は移動するキャラバン。ある日、いってしまうのは石でできた建物のほう。屋根も柱も壁も飾りもみんなはずしてバラバラにして、トラックに乗せ、別の街へ移っていってしまう。あとにはテントがバサバサいう音や人々の遊ぶ声だけが残るの。みな、半分からっぽの街をながめながら、いつかまた。街がいろんなところをまわって戻ってくるのを待ちつづけるの」 真穂は膝をかかえ、顔をあおむけた。みおろすと、その目に戻がたまっていた。 「花、わたし、つらい、とか、悲しい、とかよくわからない。ほんとうにわからないの。どうだっていいの。ほとんど、なんでも。わたしって、ずっと、生きてることから降りてるんじゃないかなあ」 涙が目尻から耳へ流れおちた。 「マルコ・ポーロから、どうしてそうなるのよう」 /嶋田双葉「冬服の姫」 引用 | 感想 | 外部リンク 21時
『天幕のジャードゥーガル』を読みながら「彼女らの背景で何百万人が殺され、その間隙をどうくぐりぬけてその親たちが生きのびてきたのかなど、思いがあらぬ方に走り、海洋で断ち切られた日本の国境とはまるきり様相のちがう地つづきの接触の中で形づくられた人間の血のあやしい混血のことが酔いのように私を襲ったのだ」という島尾敏雄の文章を思い出す など 引用 | 感想 23時
『緑の牢獄 沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶』沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶の話なのかな…と思ってたけど、同名のドキュメンタリー映画を撮るにあたって、「歴史ドキュメンタリーとはどうあるべきか?」歴史との距離をどう取って行くか?の話も収録されており、『HHhH』に似た逡巡文章が多数ある 良い 歴史・時代もの | 感想 20時
天冥の標I メニー・メニー・シープ 上 天冥の標I メニー・メニー・シープ 下 天冥の標II 救世群 天冥の標III アウレーリア一統 天冥の標IV 機械じかけの子息たち 天冥の標V 羊と猿と百掬の銀河 天冥の標VI 宿怨 PART1 天冥の標VI 宿怨 PART2 天冥の標VI 宿怨 PART3 天冥の標VII 新世界ハーブC 天冥の標VIII ジャイアント・アーク PART1 天冥の標VIII ジャイアント・アーク PART2 天冥の標IX ヒトであるヒトとないヒトと PART1 天冥の標IX ヒトであるヒトとないヒトと PART2 天冥の標X 青葉よ、豊かなれ PART1 天冥の標X 青葉よ、豊かなれ PART2 天冥の標X 青葉よ、豊かなれ PART3 ぼちぼちやっていくか… 感想 19時
『天冥の標』いちいち感情が強く揺さぶられるのが辛くて"むしろ"完読できてない(『天冥の標Ⅷ ジャイアント・アーク PART1』の途中で止まっている) そもそもの「救世群」が好きすぎる 美しい 感想 19時
映画「落下音」ソ連軍侵攻のなか一族の女性たちが河に入水するんだけど、1人だけ河のウナギに噛まれて驚いたせいで生き残ってしまった過去を持つ女性が出てきて、その事実はあとあと映画で明らかになるんだけど、それが明らかになる前に、パーティーの余興で自転車に乗りながらバケツの中のウナギを掴むイベント(ドイツにはこういう遊びがあるんだろうか)に参加させられているシーンがあるのがなかなかキツかったな なんというか…おなじ土地をめぐる身体的なトラウマがあって、しかし時間が断絶しているために、人間たちはそのトラウマを"共有"はしていない、けれどたしかに事実がそこにあった、というものが1つの映画で重層的に明らかにされていて あの女性もそれ以来「ボタンを掛け違えたような人生」を送っていて(驚くべき時に驚けないし、笑うべき時に笑えない、みたいな言い様をされている) こういう時に私は「ボタンを掛け違えた」という形容をするんだけど #映画 感想 | 思念・思索 12時
『財閥と帝国主義 三井物産と中国』著者の圧が若干強いが、「日本郵船が旗を立たせ、三井物産が腰を下ろし、横浜正金銀行が続く」にも連なるような話というか、いうならば「日本の侵略は国家や軍部が行った」という言説だけにとどまらない民間の進出に焦点を当てるのには好感ある #「渺渺録」(企業・組織擬人化) 企業・組織/〃擬人化 | 感想 09時
『えぶりでいホスト』面白いにもかかわらずそこには茫漠な空白が広がっている…これは一体なんなんだろう?そこには時代性や同時代性がなく、彼らは過去にも未来にも現在にも居ないさまが前面に現れてくるからかなあ 感想 20時
マツオヒロミ『百貨店ワルツ』不思議で魅力ある本だ なんというか実際に〈そう在った〉帝国の延長線上の日本百貨店を模倣しつつも帝国上には存在しなていないし、かといって「××風」にありがちな毒気もなく具体性もないふわふわしたものでもなくて、明確な深みがある とはいえ髙島屋や三越にあるのは国家の美的な価値だったり国民への啓蒙だったりするはずなので、やっぱりあれに描かれているのは戦前日本の百貨店ではない 「風」の味気無さが許せないことが多いんだけど、もしかしたらだけど、美的な彩りがあるのにそれの根底にあるはずの国家的な思想や歴史、だいたい暴力的なもの、が中途半端に脱臭されているからなのかもしれない……(が、いや、これも詰めの甘い考えではある) 感想 11時
森崎和江の著作の中で炭坑の女性が「(生理中に炭坑に入るなという禁忌があるが一体それがなんだというのか)人間は信心ではなく自分の意志の問題だ」というのに「それでも神さまさえ地の底にいる私を見つけられなかった」と泣くシーンがある 『現代思想』森崎回の対談でその一節に触れ、「意志」という言葉は村や炭鉱の民衆の生活用語ではない、いわば「近代的」な単語であるが、"神さまが見つけられない"と涙するのを見るに、この「意志」は近代合理主義の迷信批判とは無縁のところにある、民衆世界のギリギリの臨界から生まれた彼女の尊厳の表現なのでは、という指摘が示唆に富んでいる ▼ありていに言えば「意志」という言葉の使い方や使われる文脈にズレがある、ということなんだろうけど 関係はないけれど、これはSNSをやっているとよく感じる…私が「意志」とある文脈で言っても、人がそれを読んだ時に理解する「意志」は、絶妙に異なる ▼この炭鉱の女性はいかにして「意志」という言葉と出会って、自分の定めを指し示すものとして選び取ったのだろう? 感想 | 思念・思索 19時
一次創作と擬人化(艦船擬人化/企業・組織擬人化)を描いています。各公式、実在の組織・団体とは一切関係がなく、一個人が趣味で描いたものを掲載しています。
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