破船

津崎のお知らせ・作品・日常・雄叫び
良い…と思ったらぜひ押してやってください(連打大歓迎)

MonTueWedThuFriSatSun
Nov 0 0 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0 0 0
Dec 0 0 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0 0 0
0 0 0 0 0 0 0
Jan 0 0 0 0 0 1 8
 一個人の趣味の同人創作サイトです。
 一次創作と擬人化(艦船擬人化/企業・組織擬人化)を描いています。各公式、実在の組織・団体とは一切関係がなく、一個人が趣味で描いたものを掲載しています。
サイト「night watch」(本拠地) | 絵🎨 | 👏👏👏

従来日本で行われてきた「ノモンハン事件」の研究は、ほとんどが軍事研究であって、双方の出動した軍隊の構成、兵器、兵力、敵に与えた損害、日本側がこうむった損耗、戦争技術の巧拙などが主題であった。しかし、一九九一年、東京で行われた、日本、ソ連、モンゴルの、参戦三か国の代表が参加した「ノモンハン・ハルハ河戦争国際学術シンポジウム」では、モンゴルのゴンボスレン大佐が、「あの戦争は避けることができたかもしれない」という趣旨の報告を行ったのを聞いて、私は深い感銘を受けた。戦争すなわち殺人技術の成果を競い合う研究報告にうんざりしていた私は、戦争を避ける研究なら自分にもできるし、これこそ私がやるべき仕事だと思ったのである。

/『ノモンハン戦争』
変革主体の形成を問うと言いながら、その時代を生きた人々に「ないものねだり」をする愚かさについては、言う迄もあるまい。けれども、 「資金調達」や「市場」等々について緻密な研究が積み重さねられていっても、それが養蚕家製糸工女・製糸家その他まさに「生きた人間諸個人」を後景に退けた、いわば「おくれた日本資本主義」の再確認(・・・)に帰結するのであれば、それは少なくとも私にとっては何の意味もないのである。 歴史を対象とする研究が「歴史としての現代」 に対する責務から解放されてはならないと考える限り、つまりは我々の未来を展望することにいささかなりとかかわりを保とうとする限り、むしろ「おくれた日本資本主義」のなかで、人々が(・・・)どの様に生き何を形成して来たのか、何を考え、あるいは考えることができなかったのか、そしてそこから人々(・・)が単なる「人々」ではない主体(・・)として自らを形成する道はどの様に展望されたのか、を問うことにこそ《意味》があるのではあるまいか。
 とはいえ、学問研究たらんとする以上、心情主義的に性急に 《意味》を追求するあまり、無意識のうちにも対象化(・・・)を放棄した「情感の海」にひたる様なことは、厳しく拒絶されなければならない。「人々がどう生きたか」を考えるにしても、課題はあくまでも「まさに構造論と結合した民衆史の形成でなければならない」(石井寛治 「産業革命論」同氏ほか編『近代日本経済史を学ぶ(上)』、一九七七年、八六頁)であろう。私が《意味》 を求めようとした問題を力法(・・)として展開しようとしたのが本書の序章第一節であり、以下の諸章はそれなりにその方法をふまえているつもりであるが、それが問題=方法として一貫(・・)しているか、ましてや成功(・・)しているか否かについては、読者の判断にまつほかない。ここでは、先学諸氏の精緻な研究に比べての実証面での粗雑さをある程度意識しながらも、敢えてこうした形で本書を世に問おうとしたわけを述べておきたかった。もっともこの様な言いぐさは、「ひらき直り」ではあっても「申しひらき」になり得ないことは、私としても充分承知しているつもりである。理論的・実証的に、あらゆる角度からの厳しい批判の寄せられることを覚悟し、かつ期待している。


/瀧澤秀樹「はしがき」『日本資本主義と蚕糸業』
ほぼ初めて日本陸軍っぽい漫画を描いたけど、海軍は百歩譲るとして陸軍はある程度は泥臭い絵柄で描かないとコレジャナイになるな…
でも、この「泥臭い絵柄」って50年代から80年代に確立された絵柄のことを指していて、その絵柄たちを再生産するという話であって、日本陸軍を後世でどう受容してきたかという話であって、日本陸軍そのものとは関係はないんですよ
_00123.jpg _00221.jpg _00318.jpg _00417.jpg

『奥のほそ道』への言及の言葉づかい、雑過ぎてみっともないな
なんというか、太平洋戦争の日本の暴力にだけスパンを当てた物語じゃなくて、もっとそれこそ太平洋戦争の2、3世紀まえから続く(日本だけでない)暴力の世紀みたいなものを、フラナガンなら描けたのではないか。という話。

でもこれは泰緬鉄道の話だからそこはいいんだろう。
(Loading...)...  



ありがとうございました!!ラップバトルウケ…
浪漫派考
『日本浪漫派』やその周りをあまり知らないので気になるな…という漫画です。
文学が若者を戦争へ駆り立てた面もあった、という意味での原稿用紙の線です。意味はあまりない。

※戦争・暴力の表現注意
※描くことで、当時にあった差別・暴力的な出来事を肯定する意図はありません。

_00124.jpg _00222.jpg _00319.jpg _00418.jpg
★先生のメルキト漫画再掲に付記されている「史料に基づきません」は歴史の提示の一つの手段として有効だと感じる それだからこそ描ける過去の風景もある 提示できる荒涼とした世界がある フィクションとして再話することの意義がある 人物たちを規範の軛から解放できる/できないことを描くこと…
★古書高騰している稀覯資料本を"所有"していることに価値を感じたり、作品の時代考証が正確か/間違っているかの話をしているだけの不気味な状況には陥らないようにしている もちろんこれらは必要なことではあるが…

#『天幕のジャードゥーガル』
★移動と物流 人間たちが貨客船や航空機、あるいは艦艇や鉄道などで攪乱されていくだけなのに なにかそこには暴力の気配があるというか
いや移動したから暴力が生まれるというよりは、暴力の発露のために移動するのか?
★★そういう意味で、移民や離散や客死、などは気になる題材ではある
★近代は(その延長線上の現代も) 人間と物が驚異的な速さで動いて、点と点を結ぶ線が短くなって、世界中のものが身近になって、結びついた時代だったし
それをさらに加速させるため、あるいは断絶させるために戦闘が起きた時代だったかも
だから悲劇の多くもそこから発したように感じる
★貨客船の国威の発露としての「美しさ」、が孕んでいた暴力、という視点に目を向けているけれど、速度、スピードの時代という意識もあっていいのかも
スピードというのはブルーリボン的な船の速度の話でもあるが、日米間の手紙がすぐに届くようになったとか、そういう、世界が狭く、連結されるようになったことというか
★★だから戦争の時にメディアに載せるプロパガンダなども、世界が狭くなったがゆえの対処法だったんだろうなとは
★ロジスティクス、それは郵便から補給戦まで、これを支えていたのが艦船や航空機や鉄道などの乗り物たちだった、という視点をもっと鮮明にして彼らを描いてもいいかも 人間の移動、物流、距離、時間の短縮…
★★『アウステルリッツ』
★★『可視化された帝国 近代日本の行幸啓』
★鉄道のダイヤグラムが正確なこと、は、便利であることだけでなくて、国家の支配や秩序みたいなもの、あるいはナショナリズムにまで関わってくる…と いうことを ポヤポヤ考え続けている
大阪商船歴史創作本が出したいな 和辻技師とか大久保画伯とか大野船長とか村野社長とか…
全員おじさんじゃん ええやん
歴史創作・天ジャみたいにゆるキャラ丸みキャラな歴史創作・大阪商船のおじさんたち 見てみたい気持ちも…
結論です

右上:サイト「POW研究会」
右下:サイト「中国まるごと百科事典」
中央:日満連絡船航路案内を複写したもの(日本の古本屋で入手した紙もの・私物)
左下:東京乗合自動車株式会社発行「全国遊覧案内地図」(同上)
左上:統計局サイトより
IMG_7275.jpg
『日本軍の治安戦』を読んでいても地理がわからなかったので🇨🇳の地図も…
南京から重慶、ってめっちゃ引っ込んでんだなという感じ この長距離を爆撃したのか……
bafkreic5tliepr32dknnjerqgijsl2czjkgxgrftilii2qzyjljgrjrwlu.webp
bafkreiey2hhaeap3oyzdkjy6srw7pn7y7l7zqnq6i6ccy7mlc5sbc4tbpe.webp

人の往来って興味深いなとおもう その割に地理を知らないので
地名を名前で覚えるのも重要だけど、「その都市がその人たちにいかに遠かったか」みたいなものに"体感"として、機微でありたいんだ
連行された人、志願という形で行くしかなかった人、夢を見て行った人、そういう世紀だったから…
しかしもちろんそうではない。それではもし歴史の重みが現在と未来にこれほど重くのしかかることがあるとすれば、歴史家の仕事の一部がその重みを解除しようとすることにあることはたしかである。すなわち、たいていの抑圧の形態は構築されたものであるから脱構築されることが可能であるということを示すこと、現在あるものが必ずしも過去にあったとは限らず、したがって未来にあるとも限らないということを示すこと、である。この意味で歴史家は社会批判者でなければならない。というのは、過去が現在や未来を抑圧する一方で解放もするのは、そういう批判という手段によってであり――どんなに矛盾しているように見えようとも、歴史家は過去自体に対して両方の行為を同時におこなっているのだから。
 過去が現在を解放するというのはどういう意味かということを知るために、きわめてありふれたミクロな状況、つまり一人の若い人が彼女あるいは彼が何らかの点で「異なっている」という意識を持って成長しているという状況から始めよう。どんな点でもよい。民族としてでも、人種としてでも、性的嗜好においてでも、経済的あるいは社会的地位においてでも――名前は勝手につけてよい。変わらないのは孤立の感情、群集のなかの一人ぽっち、「彼ら」のうちの一人になれないことという感情である。そして子どもたちがお互いにきわめて残酷になりうるという事実は――おとなが子どもに対してどんなことをしているかは言うまでもなくーこの孤独さを耐えやすくするものではない。
 つぎに、あなたはじつは一人ではないということ、他の人も時間や空間を隔てて同じ経験をしており、あなたを「異なっている」としている基準がじつはいつもそこにあるわけではないということを知るときの救いの感覚を想像してみよう。自分が同性愛を考え出したと絶対的に信じている――多くの人が最初はそうであるように――若者が、たとえばミシェル・フーコーやジョン・ボズウェルを読んだとき、どんな影響を受けるだろうか、考えてほしい。つぎにもっとひろい焦点に移ろう。たとえばW・E・B・デュ・ボアの奴隷制と南北戦争後の再建期に関する作品が復活したときや、C・ヴァン・ウッドワードが南部の人種隔離はつねにあったわけではないということを示したときのアメリカ公民権運動の反応である。さらに視野をもっと広げて女性史運動が一九七〇年代や一九八〇年代に発展したときを取り上げてみよう。ここでの目的は女性抑圧の源は時間を超えたものではなく時間に縛られたものだということを証明することによってすべての女性を解放することにほかならなかったのである。

/ジョン・L・ギャディス『歴史の風景』
最近「史料に寄らず」「フィクションを盛り込み」つつ"あえて"歴史で創作することについて考えているんだけど(※ちなみにこういう「学級会」っぽい語りと語りの共有は大変野暮であり、個人的に嫌悪感がある)
フィクション化は、対象にある「概念的」「イメージ」「抽象的な全体図」みたいなものを、引き延ばしたり縮めたりするような、遠近法を使って描くような、デフォルメ手法の一種としてあって 絵を簡略化させるのと同様に物事を簡略化させることをフィクションが担っているのかなと感じた
  • 『「国語」という思想』に「非日本的日本語」という言葉が出てきて良いな
  • 私はこういう、非日本人・日本人の、日本語によってはいるが、日本的あるいは標準語的な価値観とは別としてある日本語、みたいなものに惹かれている
  • 「大衆」的とも呼べる日本的な価値観を選択せずに、しかし明確に日本語を選択する、みたいなもの
  • やっぱり浅くでいいので外国語もやるか 日本語しか知らないのに日本語の話をしていても限界がある気もする
  • 李良枝、リービ英雄、温又柔、金時鐘…の文学にはそういう非日本的日本語が詰まっているんだけど、日本人の書く文章にも非日本的日本語というものは確かにあるよなあと最近は感じていて、私もここを明確にして読んだり書いたりすべきかも
「満洲国」建設にせよ「大東亜共栄圏」建設にせよ、そこでは日本の支配圏の拡大のために、つねに「日本語の普及」という課題が最も重要な課題として挙げられていた。こうして、日本軍のあとにはかならず日本語教師がやってきたのである。

/『「国語」という思想 近代日本の言語認識』
#日本語/標準語
  • 私は歴史で見た点から、日本語の「標準語」に対して強い情動があるんだけど、私にはほとんど方言・訛りがないので自分ごととして身体的には標準語に対抗することはできずにいる
  • 日本語≒標準語が話せなかった人間(外国人だけでなくさまざまな日本人)が殺されるという風景 そういう意味で関東大震災は私にとっても1つのアポリアだ
  • 「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」(『第三十二軍司令部日々命令綴』所収「球軍会報」一九四五年四月九日付)とある
  • その点で「スパイ防止」というものが沖縄の文脈でどう受容されているのかは気になっている
  • 日本語≒標準語を喋れない人間は殺されてしかるべき、という価値観に抗いつつ、しかし現実問題、私は標準語しか喋れない…という状況 別に恥ずかしくないけれど、多少の打破を計るべきかもな~とぼんやり思ってる
  • 「韓国語とかやるか」はその一つではある
  • とはいえ、モノリンガルを嘲笑する人間が好きじゃない
『友軍とガマ』に、"私(論文筆者・宮城晴美)は琉球政府の企画した『沖縄県史』で証言を採っていたけれど、証言した住民は皆「玉砕」と表現していた、が「玉砕」は軍人の使う用語で死を美化するものであること、琉球政府の企画自体が「集団自決」だったことから、その「玉砕」を「集団自決」に変えて記載した。後年になって「集団自決」という言葉自体も正確ではないという意見が出て、今まで記録されてきた「集団自決」をどう継承すべきなのか困惑している"とあって、たいへん興味深いな
そういう意味では立ち読みした『戦争みたいな味がする』は参考図書になりえるだろうけど、あれは絶対に読んでいてつらくなる

日本と日本人であること(ある集団に否が応なしに「ある」こと)を根拠にしないようにしているけれど、とはいえ歴史などでの日本の行ったいわゆる「加害」などに言及があるとそれなりに苦しく感じるものもあり

でも私は日本人であることを強いアイデンティティにはしたくない……が、その苦しさも大切かもしれない、とも思う
何故なら、日本の戦争犯罪を語る時に「自分だけは日本人であることを『免罪』されている気になっている日本人」も一定数いるため

いや韓国系アメリカ人の書いた『戦争みたいな味がする』の冒頭に、「母親が日本に居たことがあるがその時の出来事を聞いても一切喋らなかった」という記述があって、母親の手料理が「戦争みたいな味がする」理由の大元は、そもそも日本の植民地支配にあったはずで……という本だった ような気がする 立ち読みの一部なので分からないが…

世代間の伝播について考えているし、読みたい

「世代間伝達」という言葉がちゃんとあるんだ!!すごいぞ!!今回天ジャ二次創作小説で書いたのはこれです 皇帝一族と現代日本の世代間伝達の共振をしました

#「血族の災厄」(天幕のジャードゥーガル)
#『天幕のジャードゥーガル』
九州の地震のニュースに接して「今は外国人ばかりで治安が悪い!避難所には自警団を作って武装すべきだ!」という投稿があって、何も知らずに真面目に言っているんだったら日本史における地震の文脈としてあまりに正統的すぎて「美しさ」すら感じるし、皮肉で言っているんだったらやはり地震文脈として完成度が高い これは完全に皮肉だけど…
  • そういえば『奈落の神々 炭坑労働精神史』に佐渡金山の話が一瞬だけ出てくる 私は重ねて炭坑、といいつつも金山を知らない
  • いや本当に戦争は反対なんですよ 「渺渺録」にも反映すればいいのかなぁ でもどちらかというとおそらく植民地主義なんですよね いやでも戦争と植民地主義って双子ですよね…
  • 一定の再現は求めているけど、「伝えたい」「考えてほしい」みたいな、それこそ欲求、読者への要求が希薄なのかも
  • 「日本には、アジアの国々を侵略した歴史を持つからこそ、占領や植民地支配の暴力を繰り返さない、繰り返させないというつながり方だってあり得る」(岡真理 インタビュー「「人間の物語」を伝える責務」『現代詩手帖 2024年5月号 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く』)という接続法、当たり前なんだけどこの当たり前がいま確立できているとは思えない…だからこの論理を誰でもわかりやすく理解できるように「渺渺録」でえがく、のか…?とぼんやり考えるなど
  • 「私たちの身に起きてはならない不正は、誰の身にも起きてはならないという認識、それが連帯ですよね」と同インタビューにあり、連帯までは読者に示さないが、不正があったという事実と不正が齎したあらゆるものども、という視点…

#「渺渺録」(企業・組織擬人化)
『天幕のジャードゥーガル』原作・トマトスープ先生インタビュー|「学ぶこと」は何のためにある? シタラたちの人生をを通して、自分の答えを探してほしい | アニメイトタイムズ
(Loading...)...

モンゴル史を調べて好きになった人はきっと『天幕のジャードゥーガル』を嫌いになる、みたいな一節があって、この感覚に対しての一種の了解は私にもある
#『天幕のジャードゥーガル』
『緑の牢獄 沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶』沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶の話なのかな…と思ってたけど、同名のドキュメンタリー映画を撮るにあたって、「歴史ドキュメンタリーとはどうあるべきか?」歴史との距離をどう取って行くか?の話も収録されており、『HHhH』に似た逡巡文章が多数ある 良い
  • なにかの悪や暴力があって、それを批判する時に、悪口を言うことに気持ちよくなっちゃったり、皆で批判することで「仲間意識」のようなものが芽生えたりする負の側面もあると思うんだけど
  • それはともかく、批判ではなく漫画などで表現をする時に、いかにその悪や暴力を批判しつつ、上記の負の側面を冷静にはねつけて、その上で孤独に自分の言葉でその悪や暴力を描写する(また批判意識を向ける)のかを考えている
  • そういう意味では歴史ドラマや歴史アニメが"作品"の主旨とは逸脱して、"歴史"の悪や暴力の部分を過剰に叩くこと、叩くことである種の連帯感を持つことで視聴者としての表現を得る姿勢が苦手かもしれない
  • あと最近気づいたけど、歴史ものでは、私が赤と表現しても読者は青だと思う時があって、その時に「漫画だから」「フィクションだから」が言い訳になって、完全に描写が赦されるのかというと微妙なんだ…なので、読者にいかに軛を付けるか(感情を制御するか)までもある程度筆者は義務として考えるべきかもしれない
  • 三菱の零戦カッコイイ😍という気持ちもあれば炭鉱…という気持ちもあって、それと向き合う時に勿論😍😍だけだと明らかに無視された事実が残るんだけど
  • だからといって加害性!零戦が零戦を作ることが戦争で略!という話に"漫画で"持っていくと何と言うか、漫画の限界が見えている感覚がある…という話
  • 漫画として読者にというよりは、人間が人間に何かを語りたい時に、やはり加害性!という話ではなく何故私が😍となったのかが重要
  • それか本当は人に語りたいのではなく共に考えたいのかもしれない、その時にこの悪魔的な「魅力」を否定して表現するよりは共に💓を分かち合って共振すべきなのではないかと
  • 最近はなんかカッコイイ😍が一番姿勢として正しい気がしてきた
  • 前述の語りすべてが青臭い、という一点において言えば、このカッコイイ😍は圧倒的な強さがある…