古さと場数は海ではおなじ

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『春のまひる』を読んでいてもこのあと鴨緑丸が炎に身を包まれて戦没するさまは思い浮かばないし、「地獄船」と呼ばれて記録される姿がまったく思い浮かべられない そもそも私はそれを目的として描いた 自身でそう感じるのはありがたいことだ
#「春のまひる」(船舶擬人化)
「春のまひる」付記付録紙集に「ネクロフィリア的趣味を自認する私は、船が一つの「劇的な」事象の舞台であることにある意味で惹かれなかったか?(それが戦争犯罪であろうとも?)」という一文を書いたんだけど

この「ネクロフィリア」という単語は、中井久夫が、神谷美恵子について「比較的晩年に書かれたヴァージニア・ウルフについての論文をみても、そこには病いを敏感にかぎつける、禿鷹のようなネクロフィリア(屍体愛好)の匂いが全くない」と評価していて(ウルフは躁うつ病で自ら死を選ぶ) この一文が猛烈に頭にこびりついていて

「終わりが悲劇的だった一つの生」を後世の人間がハゲワシのようにネクロフィリア的に愛好する行為、への一つの警句になっている わたしにとって…

それはヴァージニア・ウルフも鴨緑丸もいっしょ

#「春のまひる」(船舶擬人化)
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#おふねニュース
七五三の「碁盤の儀」って、船で言えば進水っぽいですよね
いや進水を誕生と考えるなら違うんだけど 地に落ちたつ人間という点では…

船擬のこと便宜上「船霊」呼びする時があるけど、その世界線にも船霊という言葉と正しい定義があり、つまり競合してしまうため、その世界線では別呼びだと思う
艦船擬人化は基本的にSFというか「船にそれぞれ人間のうつしみをした存在が居る世界線」の話なんだけど、世界線の細かな設定、実在性とか理論みたいなものは深堀する気はあまり無くて(この世界にはうつしみをめぐる特殊な法律があるはずだ…云々。もちろんそういう話も好きだが) でもなんか土着土民と言うか、神道や民間風俗から発達している感じの話は描きたい気持ちは多少ならある 桜の枝を髪にさしたり碁盤の上に立っているような感じの なんだかんだ船霊亜種なので…
本級や、“あるぜんちな丸”級,日本郵船の新田丸級らを「戦争により薄命に終わった悲劇の美女たち」といった表現で現わす例が多い。それはそれで間違いではないのだが、この時期特に政府の補助を受けて建造された多くの船舶は、いずれも戦争への投入を前提としたボランティア・フリート的な性格を強く持っていた。つまり戦争がなければ生まれ来ることはなかった特殊な存在であることもまた確かなのである。

/小林義秀「報国丸クラスの航跡」『世界の艦船 1998年2月号 No.535』
2/22コミティア155でペーパー集(?)を頒布します

船舶擬人化創作漫画同人誌『春のまひる』の副読本…ならぬ副読ペーパーです。
「擬人化漫画の副読」という体裁ですが、だいたいは「最近入手した紙ものが良い!このままだと破産する」という話です ホントそれだけ

#「春のまひる」(船舶擬人化)
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「ぶゑのすあいれす丸とりおで志゛やねろ丸の長髪はオールバック用」といいつつオールバック姿を描いていない……オールバックを描くのは苦手
「一九四一年、太平洋戦争が開戦した。第二次世界大戦下のこの国での暮らしは、船々の心に何を残したのだろうか。軍国主義下の暮らしを生きていた船の声を書き残すべく、作家は盧溝橋事件直後から一〇年以上に渡って数多くの聞き取りを行った。沈没船の乗組員や姉妹船、徴傭の経験者、改造艦艇、火の海を往った輸送船、大破した船、命令に抗って処罰を受けた漁船。大海原や港で交わされ響き合う幾多の声から、「かつての海を懐古する時代」に生きる船々の姿が浮かび上がる――。戦時に浮かびあがるかつての美しき世をとらえたインタビュー集」
新しいファイル(2)のコピー.第1002号艦_旧橿原丸(改訂済み)特設航空母艦隼鷹219420503_改航空母艦隼鷹(2)1942年7月14日改_これが一番新しいやつ.docx
「サムソンとデリラ」←オペラ
「ダフニスとクロエ」←バレエ
「雷鳴と雷光」←ポルカ
「報国丸と愛国丸」←特設巡洋艦
日本-朝鮮間の鉄道連絡船に大陸奥深くの山脈の名前が付けられるという奇特さ、の話を『春のまひる』副読本(ペーパー)ですればいいのかな 大阪商船の日満連絡船であって、関釜連絡船みたいに鉄道省のものではないのだけど…
#「春のまひる」(船舶擬人化)
その乗客たちは「満川国」に赴任する官吏であったり「満州移民」の農民であったりした。時には兵士も運ばれていった。
この時期に入ると、関金連絡船は朝鮮だけでなく中国東北部を視界に入れての運送機関の役割を担っていた。
そのような時代、時代の役割に対する姿勢が関釜連絡船の船名にも良く反映している。一九〇五(明治三八)年、最初に就航した船名が壱岐、対馬と玄界灘の島名であったが、その当時は船の名のとおり地域的な連絡船にすぎなかった。
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そして第四期の一九三六(昭和一一)年の金剛丸、一九三七年の興安丸は、金剛が朝鮮の名山であるのにたいして、興安は中国東北の興安嶺の名を採って命名されている。「満州国」が植民地支配に入ったことの反映であろう。五期にあたる一九四二(昭和一七)年に就航した船の名は天山丸(七九六ートン)である。日本の中国大陸に対する侵略が激化したこの時期、中国奥地のソ連国境から新疆ウイグル自治区に横たわる天山山脈の名称からその名を採って船名にしている。
さらに、一九四三(昭和一八)年に就航した天山丸の姉妹船は崑崙丸(七九〇九トン)と命名された。崑崙とは言うまでもなく、中国奥地のチベットから青海省を走る大山脈崑崙山脈から採った名である。船名が朝鮮に対する侵略開始の時期から植民地支配の時代、そして「満州国」の支配と、中国に対する侵略とその戦争の拡大の時期と時代が変わるたびに関金連絡船は増便され、新しく建造された船の名が変化していくが、それが何よりも朝鮮と中国と日本との交通の要としての役割を担った関釜連絡船の性格とその任務を有弁に物語っている。

/『関釜連絡船』
#「春のまひる」(船舶擬人化)