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韓国語の読み書きもできなければ母国に住んでいる韓国人の生活の実態も知らずに、一体どこを依拠して「連帯」を語り、「反体制」を呼びかけることができるというのだろうか。さらにいえば、学生という特権と身分をこれまで通り享有したままで、果たして真の意味の革命というものを目指すことができるのだろうかなどなど。私は国籍問題に対する同胞社会のヒステリックなまでの反応に出くわすたびに疑問を覚えるようになり、口先だけの「我が国」を論じ「革命」を叫ぶ「韓文研」の活動に、懐疑を抱くようになりました。
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その頃の私としては、実体もなしに言葉だけを弄ぶ政治的なスローガンよりも、個別的な問題に目を向け、生き方においても特権的なものとは無縁の態度をめざしながら、実感のともなう運動を展開していく方向で自分の生きざまを確認し、また把握したいと思っていたのです。
/李良枝「私にとっての母国と日本」
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その頃の私としては、実体もなしに言葉だけを弄ぶ政治的なスローガンよりも、個別的な問題に目を向け、生き方においても特権的なものとは無縁の態度をめざしながら、実感のともなう運動を展開していく方向で自分の生きざまを確認し、また把握したいと思っていたのです。
/李良枝「私にとっての母国と日本」
本級や、“あるぜんちな丸”級,日本郵船の新田丸級らを「戦争により薄命に終わった悲劇の美女たち」といった表現で現わす例が多い。それはそれで間違いではないのだが、この時期特に政府の補助を受けて建造された多くの船舶は、いずれも戦争への投入を前提としたボランティア・フリート的な性格を強く持っていた。つまり戦争がなければ生まれ来ることはなかった特殊な存在であることもまた確かなのである。
/小林義秀「報国丸クラスの航跡」『世界の艦船 1998年2月号 No.535』
/小林義秀「報国丸クラスの航跡」『世界の艦船 1998年2月号 No.535』
やはり今思っているのはですね、この論文では一番最後に書いたことですが、最近の靖國は非常に危険な領域に入ってきているように思います。危険というのは、軍国主義の危険とかそういうことよりも、議論が非常にこう抽象化・観念化していっているのですね。要するに私もそうだったわけで、地に足がつかない議論が非常に多い。つまり理想というものはある程度追っていかないといけないでしょうが、ただ、やはりいろんな側面を見てますとですね、何と言うんですかね、生身の人間が見えない議論というのがすごく多い、という感じがします。
それで、昨年私が論文でも取り上げたAさんBさんといった方々と面談したわけですが、実は今年になってAさんから電話があって、「先生、お元気ですか、お会いしたいですね」と仰しゃるんですね。向こうからですね、不意に。私としては嬉しいことですね。フィールドワーカーとしては嬉しく感じるものですが、何か話したいというより、顔がみたいというのです。「じゃあお会いしましょう」ということで、ちょうど永代神楽祭で靖國神社に来られるというので待ち合わせましてですね。まあ経済的にもそんなに裕福な方じゃないんですけれども、「今日は私に出させてください」と仰しゃるので天ぷらそばを御馳走になったりですね。そんなことがあって、その時はもう調査の面談ということではなくて、いろいろ身の上話などお聞きしたのですが、そういう会話の中から見えてくるものっていうのは、何というか、政治レヴェルの議論とは非常に違う世界なんですね。
それからまた、私がかつて学生時代に仙台で下宿をしていた時の大家さんが、いわゆる戦争未亡人で、息子さんを御自身で育てるために、御主人の没後に下宿業をやっていた方でした。この方なんかはですね、別に思想的に反靖國ってわけじゃないんですが、要するに「お上が祀る神なんて自分には関係ないし、生活するのが精一杯よ」という人たちで、靖國神社にも行かないわけです。だから、逆に自分から永代神楽祭に申し込む方たちというのは、どういう人種なんだろうという関心から、何人かに面談してみたんですね。すると、これもまあ、決して右翼でもガチガチのナショナリストでもない。本当にごく普通の方々がいろんな動機や事情でこう関わっている。まさに、それぞれの個人性なんですね。
そういったものを見ていったときに、一人一人を見るとですね、やはり亡くなった人を弔うことの中で自分自身が救われるというような方もいるし、これが靖國神社である人もいれば、そうじゃない別の人もいるということで、そこの個性は非常に多様だと思います。そういうものを、こう何というか、抜かしてしまう議論は危険だということですね。それは反靖國の立場の論者にもいえる話なんですね。で、だからやはり最後は、個人の一人一人に目を向けていったときに見えてくるものが大切になる。靖國の英霊と聞いたときに、それを「あの子」「あの人」「あいつ」というように受け取れる人たちですね。
ところが「あの子」と呼ぶようなお母さんというのは、もういなくなっちゃった。そして「あの人」というと奥さん、「あいつ」といえば戦友ですが、そういう人たちも少なくなって、そうなると、すべてが抽象的な政治的レヴェルの議論になっていく。そういうある意味では危険なというか、新しい段階に入っている。そこでかつてのように、個と集団との緊張関係を取り戻すにはどうしたらいいかということは、よくわからないのですけれども、やっぱりそういう人たちの想いや信仰に立ち返って、それを大事にしていくことが重要ではないか。靖國神社の中でやってきた営みというのは、そういう緊張関係の根っこにある独特の救済構造に支えられている。それを明らかにしたい。たぶんそれは単なる好奇心だけではなくて、自分自身の生き方の問題としてでもある。まあ、こんなことにですね、考えを巡らせてきたということです。
/『慰霊と顕彰の間』「危険な領域に入る靖國論争」
それで、昨年私が論文でも取り上げたAさんBさんといった方々と面談したわけですが、実は今年になってAさんから電話があって、「先生、お元気ですか、お会いしたいですね」と仰しゃるんですね。向こうからですね、不意に。私としては嬉しいことですね。フィールドワーカーとしては嬉しく感じるものですが、何か話したいというより、顔がみたいというのです。「じゃあお会いしましょう」ということで、ちょうど永代神楽祭で靖國神社に来られるというので待ち合わせましてですね。まあ経済的にもそんなに裕福な方じゃないんですけれども、「今日は私に出させてください」と仰しゃるので天ぷらそばを御馳走になったりですね。そんなことがあって、その時はもう調査の面談ということではなくて、いろいろ身の上話などお聞きしたのですが、そういう会話の中から見えてくるものっていうのは、何というか、政治レヴェルの議論とは非常に違う世界なんですね。
それからまた、私がかつて学生時代に仙台で下宿をしていた時の大家さんが、いわゆる戦争未亡人で、息子さんを御自身で育てるために、御主人の没後に下宿業をやっていた方でした。この方なんかはですね、別に思想的に反靖國ってわけじゃないんですが、要するに「お上が祀る神なんて自分には関係ないし、生活するのが精一杯よ」という人たちで、靖國神社にも行かないわけです。だから、逆に自分から永代神楽祭に申し込む方たちというのは、どういう人種なんだろうという関心から、何人かに面談してみたんですね。すると、これもまあ、決して右翼でもガチガチのナショナリストでもない。本当にごく普通の方々がいろんな動機や事情でこう関わっている。まさに、それぞれの個人性なんですね。
そういったものを見ていったときに、一人一人を見るとですね、やはり亡くなった人を弔うことの中で自分自身が救われるというような方もいるし、これが靖國神社である人もいれば、そうじゃない別の人もいるということで、そこの個性は非常に多様だと思います。そういうものを、こう何というか、抜かしてしまう議論は危険だということですね。それは反靖國の立場の論者にもいえる話なんですね。で、だからやはり最後は、個人の一人一人に目を向けていったときに見えてくるものが大切になる。靖國の英霊と聞いたときに、それを「あの子」「あの人」「あいつ」というように受け取れる人たちですね。
ところが「あの子」と呼ぶようなお母さんというのは、もういなくなっちゃった。そして「あの人」というと奥さん、「あいつ」といえば戦友ですが、そういう人たちも少なくなって、そうなると、すべてが抽象的な政治的レヴェルの議論になっていく。そういうある意味では危険なというか、新しい段階に入っている。そこでかつてのように、個と集団との緊張関係を取り戻すにはどうしたらいいかということは、よくわからないのですけれども、やっぱりそういう人たちの想いや信仰に立ち返って、それを大事にしていくことが重要ではないか。靖國神社の中でやってきた営みというのは、そういう緊張関係の根っこにある独特の救済構造に支えられている。それを明らかにしたい。たぶんそれは単なる好奇心だけではなくて、自分自身の生き方の問題としてでもある。まあ、こんなことにですね、考えを巡らせてきたということです。
/『慰霊と顕彰の間』「危険な領域に入る靖國論争」
逆説的ではあるが、女性たちが跡形もなく記録から抜け落ちたようなとき、かの女らが歴史研究者たちを悩ませる致命的な選択をしたことに、わたしは気づかされた。
/『阿姑とからゆきさん』
/『阿姑とからゆきさん』
その乗客たちは「満川国」に赴任する官吏であったり「満州移民」の農民であったりした。時には兵士も運ばれていった。
この時期に入ると、関金連絡船は朝鮮だけでなく中国東北部を視界に入れての運送機関の役割を担っていた。
そのような時代、時代の役割に対する姿勢が関釜連絡船の船名にも良く反映している。一九〇五(明治三八)年、最初に就航した船名が壱岐、対馬と玄界灘の島名であったが、その当時は船の名のとおり地域的な連絡船にすぎなかった。
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そして第四期の一九三六(昭和一一)年の金剛丸、一九三七年の興安丸は、金剛が朝鮮の名山であるのにたいして、興安は中国東北の興安嶺の名を採って命名されている。「満州国」が植民地支配に入ったことの反映であろう。五期にあたる一九四二(昭和一七)年に就航した船の名は天山丸(七九六ートン)である。日本の中国大陸に対する侵略が激化したこの時期、中国奥地のソ連国境から新疆ウイグル自治区に横たわる天山山脈の名称からその名を採って船名にしている。
さらに、一九四三(昭和一八)年に就航した天山丸の姉妹船は崑崙丸(七九〇九トン)と命名された。崑崙とは言うまでもなく、中国奥地のチベットから青海省を走る大山脈崑崙山脈から採った名である。船名が朝鮮に対する侵略開始の時期から植民地支配の時代、そして「満州国」の支配と、中国に対する侵略とその戦争の拡大の時期と時代が変わるたびに関金連絡船は増便され、新しく建造された船の名が変化していくが、それが何よりも朝鮮と中国と日本との交通の要としての役割を担った関釜連絡船の性格とその任務を有弁に物語っている。
/『関釜連絡船』
#「春のまひる」(船舶擬人化)
この時期に入ると、関金連絡船は朝鮮だけでなく中国東北部を視界に入れての運送機関の役割を担っていた。
そのような時代、時代の役割に対する姿勢が関釜連絡船の船名にも良く反映している。一九〇五(明治三八)年、最初に就航した船名が壱岐、対馬と玄界灘の島名であったが、その当時は船の名のとおり地域的な連絡船にすぎなかった。
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そして第四期の一九三六(昭和一一)年の金剛丸、一九三七年の興安丸は、金剛が朝鮮の名山であるのにたいして、興安は中国東北の興安嶺の名を採って命名されている。「満州国」が植民地支配に入ったことの反映であろう。五期にあたる一九四二(昭和一七)年に就航した船の名は天山丸(七九六ートン)である。日本の中国大陸に対する侵略が激化したこの時期、中国奥地のソ連国境から新疆ウイグル自治区に横たわる天山山脈の名称からその名を採って船名にしている。
さらに、一九四三(昭和一八)年に就航した天山丸の姉妹船は崑崙丸(七九〇九トン)と命名された。崑崙とは言うまでもなく、中国奥地のチベットから青海省を走る大山脈崑崙山脈から採った名である。船名が朝鮮に対する侵略開始の時期から植民地支配の時代、そして「満州国」の支配と、中国に対する侵略とその戦争の拡大の時期と時代が変わるたびに関金連絡船は増便され、新しく建造された船の名が変化していくが、それが何よりも朝鮮と中国と日本との交通の要としての役割を担った関釜連絡船の性格とその任務を有弁に物語っている。
/『関釜連絡船』
#「春のまひる」(船舶擬人化)
/「中井英夫・中城ふみ子往復書簡」『黒衣の短歌史 中井英夫全集10』