破船

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◆ジャンル【 艦船擬人化企業・組織擬人化歴史・時代もの
◆分類【 思念・思索長文引用感想
◆創作話【 「渺渺録」

船出のときは「それは美しく」、やがて船乗りたちの「巨大な機械」となり、そして最終的には水夫にとって、とりわけ奴隷たちにとって「浮かぶ牢獄」となった。船上のほとんど全員が、なんらかの意味での囚われ人であり、ひとつの社会制度と化した恐怖と死のシステムの犠牲者であった。
/『奴隷船の歴史』
五 マイノリティから多数へ
 マイノリティという言葉がある。私はこれまで日本社会の中でそのように名指され、私自身、そのように自己規定してきた。私が世界と向き合う以前から、マイノリティという表象は用意されており、マイノリティの人権を取り戻すためのものであれ、マイノリティを消費するためのものであれ、その語りが氾濫していた/いるからだ。しかし今思えば、私はこれまで、マイノリティという言葉の檻に閉じ込められ、存在も想像力も切り縮められてきたように思う。マイノリティという言葉に捕われている間は、マジョリティあるいは日本人と対時する関係に自己が限定されていたためか、東アジアで客死した朝鮮人の死者を感覚することはできなかった。そして、朝鮮近代文学研究者としてポストコロニアリズムに依拠しながら活動するなかで、知らず知らずのうちに、マイノリティという場所にすら安住させられ、マジョリティによって消費・管理されていくシステムに組み込まれていたように思う。これは、宿命として、私をとりまく不自由であり、政治あるいは政治的なるものである。
 私は、マイノリティではなく、多数である。私は今、この在り方をもって、マイノリティという言葉に対して復讐するべきなのだと思う。多数とは、多数派や少数派といった数の論理ではなく、内在化している他者の存在の大きさにもとづく在り方である。自己を解体し、掘り下げていったときに出遭う影。どれだけ自己を解体し、その影と共に在るのか。多数とは、〈死者と共に在る〉人間存在の基本にもとづいた思想であり、目には見えないけれども、消えたわけではけっしてないものを表現する意志である。私は、マイノリティではなく、多数である。ここで、私は〈来たるべき自己決定権〉にもとづいて、このことを決定する。そして、多数としての私は、もうひとりの多数へと呼びかける。「「祖国」復帰という大命題にその目を曇らされている一人の熱心な「復帰」主義者であった」自己を他者としてその内に抱えている新川明氏へと。
 「私は日本の国民が恐い。沖縄の人間のひとりとして、日本の国民は非常に恐いわけさ」「新川明d、七三頁]。季刊『前夜』(九号、二〇〇六年秋)でのインタビューにおける新川氏のこの言葉がとても印象深く、今でも私の中に残っている。周囲の無理解の中でも孤高に反復帰を生きてこられた氏の言葉であるからこそ、この「恐い」という感覚には、とても深い想いが込められているように思う。幸運にも私はインタビューの場に居合わせたのだが、新川氏は、この言葉を大袈裟にではなく、さらりと、率直におっしゃっていた。
 私は共感する。二〇〇六年一〇月九日、朝鮮民主主義人民共和国によって核実験がなされた後の日本社会で、私は、ウシロカラササレル、身体の緊張を覚えはじめた。それは私の歴史感覚を革命的に変える出来事であり、朝鮮と出遭う瞬間であった。関東大震災のとき、日本民衆に竹槍で背中を刺され客死した朝鮮人の身体と繋がった、そう言ってしまうとあなたは理解に苦しむかもしれないが、少なくとも、関東大震災のときから日本社会は何も変わっていないことを直感した。
 ウシロカラササレル、それはきっと痛いしとても恐いことなのであるがしかし、今は恐くない。客死した死者と共に在る、あるいは、これはテント芝居「野戦之月海筆子(ヤセンノツキハイビィーツ)」の桜井大造氏の言葉であるが、死者に抱かれた、からなのだと思う。客死した死者に抱かれている私(たち)は、マイノリティではなく、多数である。これは、「野戦之月海筆子」のテント芝居を通じて、この手と足でテントを建て、役者として地を踏みしめて表現するなかで身体化された希望である。
 私の身体は今、客死した朝鮮の死者に呼ばれるようにして、東アジアを感覚している。沖縄で客死した朝鮮人の死者、台湾で客死した朝鮮人の死者のことを知りたい、そう切に思う。沖縄戦のとき、沖縄人に竹槍で背中を刺され客死した朝鮮人の、その刺される瞬間の眼に映ったものを想像する――。そして、もうひとり、私が向き合うべき、内なる他者がいる。サイトウヒロシ。日本名を名乗っていたときの私だ。

/「影の東アジア」『残傷の音』
ファンネルマークにも苦労した。大阪商船は白の大の字、三井船舶は白の三本線である。それぞれの歴史をもち、このマークで世界の海に雄飛し、双方の社員には思い出深いものである。しかし、いずれかのマークを残すわけにはいかない。いろいろな図案が合併準備委員会に持ち込まれたが、なかなか決まらない。大阪商船の準備委員会の交渉委員長は専務の加福龍郎である。加福はノーマークを主張した。
「大阪商船三井船舶はトップ企業である。トップにはマークは必要ではない。二位以下がマークをつければよい。イギリスの郵便切手をごらんなさい。国名は印刷されていません。ドイツ、フランス、アメリカの切手はみな国名が記入されている。ナンバー・ワンにはマークは要らないのです」
ノーマークに決まったが、今度はその色をどうするかである。大阪商船専務の坪川五郎と三井船舶常務の鈴木久之助が相談したが、なかなか決まらない。
ふと机の上を見ると、たばこの「光」が目にはいった。このたばこは現在は製造していないが、一〇本入りの箱はだいだい色である。これにしようということになった。新会社のオレンジ・ファンネルはこうして決まった。
/『風濤の日日』
 ぼくらの父祖たちにとって国家はどうだったか?それは幻想としての国家像の暗闇であればある程、顕在化する形として女たちの狂気の挿話をとりあげることができる。昭和の十年代、素封家に育った女が、その夫は都市に就職したけれども、女が海を渡るのは当時村では禁忌だった。年月が立つうちに、ついに思いあまって磯の波打際にひざまづいている女の姿が村の誰れそれの眼にも頻繁にみえるようになった。いわば古いしきたりと禁忌によって素封家に生まれた女なのだが、「時間」の推移によって対幻想が危機にさらされるとき素封家の女は美しくしかも近よりがたい狂気と化したのだ。狂気によって孤島の波打際は都市につながる幻想であり、幻想としての村共同体が解体してあと、一種の可能性として思いみられる共同体である。その女には自覚されざる、しかも情念の内にいだかれている国家像だといえる。また可能性として思いみられた共同体は一度解体したので、それは一つの共同体の影であり、それは幻想である限り、未来の階級を女の自覚しない形で、地つづきの境域として思想者に思いみられるものだといえまいか。マツスとしての波の砕ける無人の磯でくる日もくる日も、荒波のうねり割れる響きと、島を脱出するのをむげにおとしめる村の不文律によって夾撃されて強度の自己禁忌におちいることによって、はじめてつりあう心理的危機が醸成される。それは素封家の由緒正しい子女が村の性のアナーキズムから自己疎外することによって人間形成を遂げたので、狂気は破滅へ向う解放としてでもなく、一種の鬼気をただよわせてあおじろく細っていながら、自己禁忌の極限において対幻想(都市の夫と生活を共有したい思い)は空洞化しながら一層深く女の「生」を拘束する呪縛となるのだ、といえよう。そこから女が脱出するには途はおそらく二つしかありえない。森崎和江の「権力側の祭神に接続していた巫女が、共同体の解体に従って次第にその被所有へ偏向し、やがてその領域の意識の診断者、伝達者として民間遊行の歩き巫女になった。」(「被所有の所有」)といった風に性の融合倒錯によって村共同体の幻想域に生きるか、禁忌を破砕して男たちの一方的につくった共同体を越境することによって対幻想をまっとうするか、のいずれかだ。つまりは自己の対幻想が深まれば深まるほど村共同体の禁忌は家系を通してそれにくつわをかませ浸触してゆく。無言の誰何の目たちにさらされて、狂気は必然的に自己幻想の緊張度の限界を越えるとき発狂となる。素封家の貞女たちは村ではたいてい発狂の危機をあやうく持ちこたえている女たちだ。それを吉本隆明は人間心理の闇黒にわけ入って解明する。「人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで〈共同幻想に浸触〉された状態を〈死〉と呼ぶ」(「他界論」)と。素封家の女は、幻想を共同体の方へ傾斜させ一致させる心理的すりかえによって「歩き巫女」になって狂気の、生活への解体をなしとげる情念の風化現象による個人性の喪失ではなく、最後まで個人性のますますリアリテをもつ幻想を生きその重みに耐えかねて発狂し、ついに他界したのである。沖縄に生まれ育った者は多かれ少なかれ素封家の女が自己幻想に全存在をささげ、狂して他界するまでの〈生〉の過程を土着への、あるいは共同体への屈服として単なる哀しい挿話でなしに、個人性の連帯への覚醒の予兆としてくみとらねばならないのではなかろうか。なぜなら「女人禁忌」の思想が原則的には崩壊しているのにもかかわらず、見えざる形で人間関係の心理的動因を規制する範型になっていはしないかという危惧を打ち消すことがいまだにできかねるからだ。それは共同体にまつわる気候、風土などの民族的な感受帯をいかに対象化し、脱却するかという個人性の自覚をまって始めて思想と詩の自立が問題になるのだといえよう。既成の国家の共同性が知識人たちを挫折させる日本近代のメンタリティーの病理もそこに淵源することは二度の大戦でいかにぶざまに日本の知識人たちが国家の共同性のファナァチックな危機の情況で同化解体していったかを思い返すだけで充分だろう。思想の裏切りなどという倫理の次元ではどうしても解決しようのない転向は、風土と民族の感受帯を抽出対象化し共同性を批判し自立する思想の個人性の論理がみちびきだされない限り、糾明されないだろう。論理として意識するとせざるとにかかわらず、また詩作品もその論理によって批評することが一つの確実な射程となることはたしかだ。
/「波打際の論理」清田政信『情念の力学』
※沖縄の近代について
美術と政治とをきりはなすことの要求は非政治的にみえて実はきわめて政治的である
/『在日朝鮮美術家画集』1962年、97頁。孫引『美術手帖』2019年12月号、42頁
誤解を避けるためにつけ加えておかなくてはならない。「軍事大国」化を支えたのが養蚕家や製糸工女たち(あるいはひろく農民や労働者たち)であったというとき、そのことは「軍事大国」化のためには彼らの犠牲的献身は「やむを得なかった」ことを意味したり、ましてや彼ら自身が「お国のために尽そうとして」ひたすら苦しい条件のなかで繭や生糸をつくり続けたということを意味するのではない。
 もちろん、為政者や資本家など総じて支配する側にある人々は「蚕糸は国の礎」と説き続けることで苛酷な収奪を(おそらく自らに対しても)合理化していたし、そうした国家主義的イデオロギーが様々な形で農民や労働者の内面を支配していたことを軽視することはあやまりであろう。にもかわらず、極めて明瞭であるのは、至極あたりまえのことではあるが、繭をつくり糸を繰るのは自分たちの生活のためだったのであり、生存可能のギリギリの水準において必死に生活をまもろうとした人々こそが、養蚕製糸にかりたてられていった人々の大部分であったということである。そうした人々の必死の労働の成果が「軍事大国」化に動員されていったというところに、日本の《近代》のもつ、いわば最も荒涼とした意味があらわれているのだ。
/『繭と生糸の近代史』
#近代 #「渺渺録」(企業・組織擬人化)
「戦後二十五年,延々と私達の主体は心ある日本人の鏡の役でしかありませんでした」。ここで指摘されているのも,いい日本人をつくるための鏡として在日朝鮮人がずっと設定されてきており,朝鮮人に対して親切にすればいい日本人,差別した人は悪い日本人,という構図なわけです。こういった構図のなかでは朝鮮人自身が主体となることはありませんし,朝鮮自体が抱え込んでいる問題がともに解決すべき問題として共有されることもありません。つまりマジョリティたちを照らしだすための鏡としてマイノリティが利用されていることについて厳しく指摘されているわけです。この指摘は最近になってなされたものではありません。講演のなされた1971年に既に指摘されているものです。
/藤井たけし「帝国の養女の里帰り」
#「渺渺録」(企業・組織擬人化)
或る日のこと、私の扉を誰かが叩く音がした。一人の兵士がかなりおずおずとした様子でそこに立っていた。次の瞬間私はびっくりした。リルケ――軍装したライナー・リルケだったのだ!彼は痛々しいほど不器用げに見えた。詰襟のために窮屈な思いをし、どの将校にも長靴をかちっ(・・・)とぶつけて敬礼せねばならないという考えのためにどぎまぎしていた。そして、完璧ということへの魔的な強迫にとらわれている彼だから、このような軍規の些細な形式をも模範的に正確に遂行しようと思っていたため、絶えず困惑の状態のなかにいた。「私は」と彼はあの低い声で私に言った、「この軍服というものを幼年学校以来きらっていました。もう永久に逃れたと思っていたのですが。今、ほとんど四十歳でもう一度着なくてはならないのです。」幸い彼を守る救いの手があって、彼はまもなく好意的な身体検査のおかげで免除となった。別れを告げるため、もう一度彼は――そのときはすでに私服にかえっていたが――私の部屋に入って来た。私はほとんど、風のように吹き込んで来た、と言いたいくらいである(そのように筆舌に表し難いほど音もなく、彼はいつでも歩くのだった)。彼は私になお礼を述べに来たのだ。私がロマン・ロランを通じて、彼のパリで没収された蔵書を救おうと試みたからである。初めて彼は、もう若くないように見えた。恐怖の思いが彼の精魂を使い果たしてしまったかのようであった。「外国に行きたい」と彼は言った、「外国に行けるのなら!戦争はいつも牢獄ですね」。そして彼は立ち去った。今や私はふたたび全く孤独となった。

/『昨日の世界 上』
選衡経過には白々しいことを書きましたが実を申せば何万首といふ数の割に全くどうでもいいやうな歌の多いのに驚き呆れ、とはいへさうした作者たちが無言の非難を向けてゐるやうに思はれましたのは『それでもげんざい短歌研究に載つてゐる歌よりはましだろう?』といふことです。おほきにさうには違ひなく、苦笑するしかほかないのですが、まあそんな中で、中城さんと大塚陽子さんの御二人の御歌だけは目立つて鮮やかな作で、漸く救はれた思ひがしました。

/「中井英夫・中城ふみ子往復書簡」『黒衣の短歌史 中井英夫全集10』
韓国語の読み書きもできなければ母国に住んでいる韓国人の生活の実態も知らずに、一体どこを依拠して「連帯」を語り、「反体制」を呼びかけることができるというのだろうか。さらにいえば、学生という特権と身分をこれまで通り享有したままで、果たして真の意味の革命というものを目指すことができるのだろうかなどなど。私は国籍問題に対する同胞社会のヒステリックなまでの反応に出くわすたびに疑問を覚えるようになり、口先だけの「我が国」を論じ「革命」を叫ぶ「韓文研」の活動に、懐疑を抱くようになりました。
[…]
 その頃の私としては、実体もなしに言葉だけを弄ぶ政治的なスローガンよりも、個別的な問題に目を向け、生き方においても特権的なものとは無縁の態度をめざしながら、実感のともなう運動を展開していく方向で自分の生きざまを確認し、また把握したいと思っていたのです。
/李良枝「私にとっての母国と日本」
本級や、“あるぜんちな丸”級,日本郵船の新田丸級らを「戦争により薄命に終わった悲劇の美女たち」といった表現で現わす例が多い。それはそれで間違いではないのだが、この時期特に政府の補助を受けて建造された多くの船舶は、いずれも戦争への投入を前提としたボランティア・フリート的な性格を強く持っていた。つまり戦争がなければ生まれ来ることはなかった特殊な存在であることもまた確かなのである。

/小林義秀「報国丸クラスの航跡」『世界の艦船 1998年2月号 No.535』
 やはり今思っているのはですね、この論文では一番最後に書いたことですが、最近の靖國は非常に危険な領域に入ってきているように思います。危険というのは、軍国主義の危険とかそういうことよりも、議論が非常にこう抽象化・観念化していっているのですね。要するに私もそうだったわけで、地に足がつかない議論が非常に多い。つまり理想というものはある程度追っていかないといけないでしょうが、ただ、やはりいろんな側面を見てますとですね、何と言うんですかね、生身の人間が見えない議論というのがすごく多い、という感じがします。
 それで、昨年私が論文でも取り上げたAさんBさんといった方々と面談したわけですが、実は今年になってAさんから電話があって、「先生、お元気ですか、お会いしたいですね」と仰しゃるんですね。向こうからですね、不意に。私としては嬉しいことですね。フィールドワーカーとしては嬉しく感じるものですが、何か話したいというより、顔がみたいというのです。「じゃあお会いしましょう」ということで、ちょうど永代神楽祭で靖國神社に来られるというので待ち合わせましてですね。まあ経済的にもそんなに裕福な方じゃないんですけれども、「今日は私に出させてください」と仰しゃるので天ぷらそばを御馳走になったりですね。そんなことがあって、その時はもう調査の面談ということではなくて、いろいろ身の上話などお聞きしたのですが、そういう会話の中から見えてくるものっていうのは、何というか、政治レヴェルの議論とは非常に違う世界なんですね。
 それからまた、私がかつて学生時代に仙台で下宿をしていた時の大家さんが、いわゆる戦争未亡人で、息子さんを御自身で育てるために、御主人の没後に下宿業をやっていた方でした。この方なんかはですね、別に思想的に反靖國ってわけじゃないんですが、要するに「お上が祀る神なんて自分には関係ないし、生活するのが精一杯よ」という人たちで、靖國神社にも行かないわけです。だから、逆に自分から永代神楽祭に申し込む方たちというのは、どういう人種なんだろうという関心から、何人かに面談してみたんですね。すると、これもまあ、決して右翼でもガチガチのナショナリストでもない。本当にごく普通の方々がいろんな動機や事情でこう関わっている。まさに、それぞれの個人性なんですね。
 そういったものを見ていったときに、一人一人を見るとですね、やはり亡くなった人を弔うことの中で自分自身が救われるというような方もいるし、これが靖國神社である人もいれば、そうじゃない別の人もいるということで、そこの個性は非常に多様だと思います。そういうものを、こう何というか、抜かしてしまう議論は危険だということですね。それは反靖國の立場の論者にもいえる話なんですね。で、だからやはり最後は、個人の一人一人に目を向けていったときに見えてくるものが大切になる。靖國の英霊と聞いたときに、それを「あの子」「あの人」「あいつ」というように受け取れる人たちですね。
 ところが「あの子」と呼ぶようなお母さんというのは、もういなくなっちゃった。そして「あの人」というと奥さん、「あいつ」といえば戦友ですが、そういう人たちも少なくなって、そうなると、すべてが抽象的な政治的レヴェルの議論になっていく。そういうある意味では危険なというか、新しい段階に入っている。そこでかつてのように、個と集団との緊張関係を取り戻すにはどうしたらいいかということは、よくわからないのですけれども、やっぱりそういう人たちの想いや信仰に立ち返って、それを大事にしていくことが重要ではないか。靖國神社の中でやってきた営みというのは、そういう緊張関係の根っこにある独特の救済構造に支えられている。それを明らかにしたい。たぶんそれは単なる好奇心だけではなくて、自分自身の生き方の問題としてでもある。まあ、こんなことにですね、考えを巡らせてきたということです。

/『慰霊と顕彰の間』「危険な領域に入る靖國論争」
逆説的ではあるが、女性たちが跡形もなく記録から抜け落ちたようなとき、かの女らが歴史研究者たちを悩ませる致命的な選択をしたことに、わたしは気づかされた。
/『阿姑とからゆきさん』
その乗客たちは「満州国」に赴任する官吏であったり「満州移民」の農民であったりした。時には兵士も運ばれていった。
この時期に入ると、関金連絡船は朝鮮だけでなく中国東北部を視界に入れての運送機関の役割を担っていた。
そのような時代、時代の役割に対する姿勢が関釜連絡船の船名にも良く反映している。一九〇五(明治三八)年、最初に就航した船名が壱岐、対馬と玄界灘の島名であったが、その当時は船の名のとおり地域的な連絡船にすぎなかった。
[…]
そして第四期の一九三六(昭和一一)年の金剛丸、一九三七年の興安丸は、金剛が朝鮮の名山であるのにたいして、興安は中国東北の興安嶺の名を採って命名されている。「満州国」が植民地支配に入ったことの反映であろう。五期にあたる一九四二(昭和一七)年に就航した船の名は天山丸(七九六ートン)である。日本の中国大陸に対する侵略が激化したこの時期、中国奥地のソ連国境から新疆ウイグル自治区に横たわる天山山脈の名称からその名を採って船名にしている。
さらに、一九四三(昭和一八)年に就航した天山丸の姉妹船は崑崙丸(七九〇九トン)と命名された。崑崙とは言うまでもなく、中国奥地のチベットから青海省を走る大山脈崑崙山脈から採った名である。船名が朝鮮に対する侵略開始の時期から植民地支配の時代、そして「満州国」の支配と、中国に対する侵略とその戦争の拡大の時期と時代が変わるたびに関金連絡船は増便され、新しく建造された船の名が変化していくが、それが何よりも朝鮮と中国と日本との交通の要としての役割を担った関釜連絡船の性格とその任務を有弁に物語っている。

/『関釜連絡船』
#「春のまひる」(船舶擬人化)