古さと場数は海ではおなじ

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映画「落下音」パンフレットに、滞在した空き家の農家にそのまま50年以上は昔の住人のスナップ写真が残っていた(女たちが同じ農家の中庭からこちらを見つめている写真)のを発見したことに触れて、"同じ場所で時間の層が同時に存在すること、誰かがごく日常的なことをしている傍らで別の誰かが人生を変えるような切実な体験をしているというその同時性に惹かれた"と書かれていて良い
  • これは私もよく考える 氷川丸だって80年前は、私が大さん橋方面を眺めているプロムナード・デッキの同じ場所に傷病者を載せていたわけで…
  • 貨客船の次の瞬間に現代の次の瞬間に病院船の瞬間が写し出される氷川丸映画はある
でもああいう「日刊預言者新聞に出てくる多くが知り合い」みたいな悪く言えばローカルな世界、悪く言えば村社会、みたいな面はあるのかなという邪推…を最近はしている 幼少期に読んだ時はそんなのわからなかったけどさ
#『ハリー・ポッター』
『ハリー・ポッター』魔法能力の有無に「穢れ」や「血」という言い方はおかしくないか?という感じで「穢れた血」とかの文脈とかがよくわからなかったけれど、魔法界はまさにそれこそ「非科学的」な論理で回っていて、あの時代でも魔法界は一種の「中世的世界」であるということに気づき…
>ダドリーが怒ってプレステをブン投げてるシーンとかあるので、つい非魔法界=現実世界と同時代性を見出してしまうが…
>でもハリポタの「穢れた血」って原語を考えるべきかもしれない
#『ハリー・ポッター』
森崎和江の著作の中で炭坑の女性が「(生理中に炭坑に入るなという禁忌があるが一体それがなんだというのか)人間は信心ではなく自分の意志の問題だ」というのに「それでも神さまさえ地の底にいる私を見つけられなかった」と泣くシーンがある
『現代思想』森崎回の対談でその一節に触れ、「意志」という言葉は村や炭鉱の民衆の生活用語ではない、いわば「近代的」な単語であるが、"神さまが見つけられない"と涙するのを見るに、この「意志」は近代合理主義の迷信批判とは無縁のところにある、民衆世界のギリギリの臨界から生まれた彼女の尊厳の表現なのでは、という指摘が示唆に富んでいる

彼女は近代合理主義の観点から炭鉱の迷信を批判して「意志の問題だ」と言っているわけではなくて、ここでいう「意志」の文脈はむしろ……という話なんだけど、最近はこの一つの言葉の使われ方のニュアンスや意味が気になる
やっぱり『影の獄にて』のセリエが日本軍人に殺されたのは、ストンピーを射殺したことの清算だったように思えてならない
2026年2月13日(金曜日)の日記

『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』少し読む。
 思い立って『天冥の標Ⅷ ジャイアント・アーク PART1』続きから、久々に読む。やはり圧倒的に良い。良すぎて感情を強く揺さぶられて、辛くて続きがサクサク読めない。
 フィクション作品の著者が(これは『天冥の標』の小川一水先生だけでなく)自分の属する属性・共同体に負の意味を付与することを時折考える。負、というか、運命的な悪役に近いという意味での負の存在というか。つまり、ある日本人・チカヤの果てとしてある救世群の今・ここのことなんだけど。
 でも、小川先生が日本を自分の属する共同体だと考えているのかはわからないし、そもそも負の意味が付与されているのか、つまり救世群の存在は「負」なのかについても保留が必要だと気づいた。
 日本の近代が描きたくて、「渺渺録」も着手していきたい。
 平日の最後、とにかく疲れた。
心霊漫画『低俗霊DAYDREAM』のヒロインは金がなくSM嬢をしているが、時おり東京都庁環境局の生活対策課の父親経由で「口寄せ」を依頼されている。その課は一般市民の「忌物苦情相談」に応じている
時おり住宅局住宅経営部保全課や警視庁と管轄問題で揉めたり協力していたりして面白い
#過去メモ
『低俗霊DAYDREAM』というだいすきな漫画 ヒロインは霊の口寄屋で普段は金欠のためにSM嬢をしてるんだけど、密かな黒歴史の思い出として16歳の時にできた彼氏をめぐる話があり、その彼とは「ハリポタ掲示板」で出会い…という設定で黒歴史ながらめちゃくちゃ気になるその掲示板
#『ハリー・ポッター』
2026年2月11日(水曜日)の日記

 よく寝た。久々によく寝た感じがある。
 私の過去の日記を読むと、文章の口調がなんだかキモいぜ。
 ときどき「明日死んでるかもしれないから」と言ってしまうんだけど、冗談でのたまうならともかく、最近は本気で理由や根拠や納得や諦観に使い始めてしまって、いい加減のところで辞めないといけない危ない感情だ。
 『ハリー・ポッター』について考えている。というか、レギュラス・ブラックについて考えている。描かれなかった膨大な余白というか、空白について想う。人生にはいくつもの可能性があったこと、(可能性というのは約束された成功という意味ではなく分岐点のこと、)それらが失われて今があること、を、考えている。例えばそこにマグルか血を裏切るものがいて、レギュラス・アークタルス・ブラック、死喰い人としてあなたは彼を殺める。大昔から血と誇りと共に受け継いできたその技術、その魔法で殺める。人間はさまざまな場所で、様々な物語を抱えている。呪文学の腕は、仲間のなかでは一番良かった。
『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』を少し読む。イ・ランの「家族という地獄を再生産しない」と「感情のごみ箱(として話し相手になる私)」という言葉遣い、私と同じ人生の文脈に立っている感じがすごい……というとおこがましいだろうか。言い過ぎだろうか。
 虚無な祝日こと建国記念日を過ごしてしまった。

#『ハリー・ポッター』
イ・ラン、早めの段階で「母親の持っていた子供への命名権」を聞いているの良いな(『声を出して、呼びかけて、話せばいいの』を読んでいる)
現代韓国文学にはあまり通じてないんだけど、イ・ランの「家族という地獄を再生産しない」と「感情のごみ箱(として話し相手になる私)」という言葉遣い 同じ文脈に立っている感じがすごい…というとおこがましいだろうか
いやそういう経験の有無の話ではなくて、言い回しが……
「人生のサナトリウム」 それが『ノルウェイの森』
『ノルウェイの森』って「人生の失われた可能性」の話でもあるんだろうな…と
・『ノルウェイの森』しか読んだことないけど『ノルウェイの森』はだいぶ好きだ そりゃ気になる点もあるけどさ…
・文庫版『ノルウェイの森』買い直したんだけど、緑色が黒に近くなってない?昔はもっと緑色だったと思う 今は黒め
・トオルも直子も、全体的に人生というボタンを掛け違えていて、世間からズレていて、世俗から隔離されていて、私がちょうど『ノルウェイの森』を読んでいた時期がまさにそんな感じだったので共感してたのかもしれない

シリウス・ブラックはイケメン補正のせいで人気キャラで愛されているけど、最近は彼の人生の報われなさ過ぎに目がいって苦しい
親と喧嘩しまくって学校卒業後すぐ親友をミステイクで失いアズカバン行きで、しばらくしたら実家に籠もらされて、それで殺されて死ぬんだよね?

#『ハリー・ポッター』
『ネットワーク・エフェクト』のさみしい風景みたいなものは一体なんだろう、と思うんだけどただ単に大量の死体が星の下に埋まってるだけだから

『ネットワーク・エフェクト』って誰かにとっての「後日譚」だし、特定の誰かというより膨大な死者たちにとっての後日譚なんだよ そこに突然マーダーボットがやってきてストーリーが始まっているだけで…

すでに名称が失われた「惑星」の、そこに前CR時代に「自由意志で志願して」入植した労働者たちの、その変貌した子孫たちの、アダマイン・イクスプロレーションズ社の、バリッシュ-エストランザ社の、あるいは話中に名前の出てこなかった多くの者ども、昔、まだ生きているときに企業に携わったものたち、資本主義に従事し、使役し使役され生業を全うし死んだ膨大な過去の死者たちの後日譚が『ネットワーク・エフェクト マーダーボット・ダイアリー』です

#『マーダーボット・ダイアリー』
シリウス・ブラックはともかくレギュラス・ブラックに萌えだしたら終わりという言は、原作にレジーはほぼほぼ出てこないので一段深度が深まったオタクになるぞ…の意味です

#『ハリー・ポッター』
『敗北を抱きしめて』は歴史書というよりは、強烈なナラティブを提示されている感覚が強い
『敗北を抱きしめて』まあまあ面白いし、当時のアメリカでは「新しい」ものだったのかもしれないけど、あの本の持つ「面白さ」こそが問題なんじゃないか、と感じた
『敗北を抱きしめて』を無条件に抱きしめる気にはとうていなれない
『喪失とノスタルジア』で、『敗北を抱きしめて』について「占領軍が日本に移植したアメリカ流のデモクラシーという理念が無規定なままに肯定されており、依然として近代化論以来の、アメリカ的な価値観を自明視する態度の残滓が見てとれ」るとあって、わかる~となる
うろ覚えだけど、映画「永遠の0」の景浦が、宮部が特攻隊に志願したことに「どういうことですか」ってつっかかるシーンが挿入されていたと思うんだけど、あの物語の構造(本意の発覚)がとてもよかった…記憶があるけどもう一度見る気がしないぜ 合コンシーンが辛すぎてサ
物語の終盤で話の前提のちゃぶ台をひっくり返される…ともちょっと違う
『ハリー・ポッター』の『アズカバンの囚人』の、冒頭の夜の騎士バスでスタンが喋ってる「大笑いしているシリウス・ブラック」の話、なぜシリウスが大笑いしているのかは物語を読めばおわかりの通りなのですが………私はこういう話の構成が好きだ。

つまり年代・時系列でいえば、
①ポッター夫妻が死ぬ
②シリウスがすべて(ポッター夫妻が死んだ理由、ピーターの裏切り)を知って大笑いする
③ハリーがその出来事(大量殺人が起きて大笑いしたこと)を知る

なのですが、物語(『アズカバンの囚人』)では、
(①ポッター夫妻が死んでいる)
②ハリーがブラックが殺人をして大笑いをしたという出来事を知る
③作中ですべて(大笑いした理由、ポッター夫妻が死んだ理由、ピーターの裏切り)を知る

という順番になっています。つまり2と3が入れ替わっているんですね。
こういうのにめっぽう弱くて、あとから、つまり再読時に改めてシリウスの哄笑に孕んだ絶望などを感じます。時間枠に余白ができますね。


ここからはすべてうろ覚えの話になりますが、映画「永遠の0」の景浦(やくざのお爺さん)の本意(宮部久蔵への想い)もこのように「時系列」と「作中の事実判明の順番」が交差していて大変燃えた記憶があります。

#『ハリー・ポッター』
男と男の生死を貫通させたクソデカ感情話(?)『影の獄にて』