その乗客たちは「満川国」に赴任する官吏であったり「満州移民」の農民であったりした。時には兵士も運ばれていった。 この時期に入ると、関金連絡船は朝鮮だけでなく中国東北部を視界に入れての運送機関の役割を担っていた。 そのような時代、時代の役割に対する姿勢が関釜連絡船の船名にも良く反映している。一九〇五(明治三八)年、最初に就航した船名が壱岐、対馬と玄界灘の島名であったが、その当時は船の名のとおり地域的な連絡船にすぎなかった。 […] そして第四期の一九三六(昭和一一)年の金剛丸、一九三七年の興安丸は、金剛が朝鮮の名山であるのにたいして、興安は中国東北の興安嶺の名を採って命名されている。「満州国」が植民地支配に入ったことの反映であろう。五期にあたる一九四二(昭和一七)年に就航した船の名は天山丸(七九六ートン)である。日本の中国大陸に対する侵略が激化したこの時期、中国奥地のソ連国境から新疆ウイグル自治区に横たわる天山山脈の名称からその名を採って船名にしている。 さらに、一九四三(昭和一八)年に就航した天山丸の姉妹船は崑崙丸(七九〇九トン)と命名された。崑崙とは言うまでもなく、中国奥地のチベットから青海省を走る大山脈崑崙山脈から採った名である。船名が朝鮮に対する侵略開始の時期から植民地支配の時代、そして「満州国」の支配と、中国に対する侵略とその戦争の拡大の時期と時代が変わるたびに関金連絡船は増便され、新しく建造された船の名が変化していくが、それが何よりも朝鮮と中国と日本との交通の要としての役割を担った関釜連絡船の性格とその任務を有弁に物語っている。 /『関釜連絡船』 #「春のまひる」(船舶擬人化) 艦船/〃擬人化,引用 2026/01/12
この時期に入ると、関金連絡船は朝鮮だけでなく中国東北部を視界に入れての運送機関の役割を担っていた。
そのような時代、時代の役割に対する姿勢が関釜連絡船の船名にも良く反映している。一九〇五(明治三八)年、最初に就航した船名が壱岐、対馬と玄界灘の島名であったが、その当時は船の名のとおり地域的な連絡船にすぎなかった。
[…]
そして第四期の一九三六(昭和一一)年の金剛丸、一九三七年の興安丸は、金剛が朝鮮の名山であるのにたいして、興安は中国東北の興安嶺の名を採って命名されている。「満州国」が植民地支配に入ったことの反映であろう。五期にあたる一九四二(昭和一七)年に就航した船の名は天山丸(七九六ートン)である。日本の中国大陸に対する侵略が激化したこの時期、中国奥地のソ連国境から新疆ウイグル自治区に横たわる天山山脈の名称からその名を採って船名にしている。
さらに、一九四三(昭和一八)年に就航した天山丸の姉妹船は崑崙丸(七九〇九トン)と命名された。崑崙とは言うまでもなく、中国奥地のチベットから青海省を走る大山脈崑崙山脈から採った名である。船名が朝鮮に対する侵略開始の時期から植民地支配の時代、そして「満州国」の支配と、中国に対する侵略とその戦争の拡大の時期と時代が変わるたびに関金連絡船は増便され、新しく建造された船の名が変化していくが、それが何よりも朝鮮と中国と日本との交通の要としての役割を担った関釜連絡船の性格とその任務を有弁に物語っている。
/『関釜連絡船』
#「春のまひる」(船舶擬人化)