破船

津崎のお知らせ・作品・日常・雄叫び
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 一個人の趣味の同人創作サイトです。
 一次創作と擬人化(艦船擬人化/企業・組織擬人化)を描いています。各公式、実在の組織・団体とは一切関係がなく、一個人が趣味で描いたものを掲載しています。
サイト「night watch」(本拠地)🎨 | 👏👏👏

結論です

右上:サイト「POW研究会」
右下:サイト「中国まるごと百科事典」
中央:日満連絡船航路案内を複写したもの(日本の古本屋で入手した紙もの・私物)
左下:東京乗合自動車株式会社発行「全国遊覧案内地図」(同上)
左上:統計局サイトより
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『日本軍の治安戦』を読んでいても地理がわからなかったので🇨🇳の地図も…
南京から重慶、ってめっちゃ引っ込んでんだなという感じ この長距離を爆撃したのか……
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人の往来って興味深いなとおもう その割に地理を知らないので
地名を名前で覚えるのも重要だけど、「その都市がその人たちにいかに遠かったか」みたいなものに"体感"として、機微でありたいんだ
連行された人、志願という形で行くしかなかった人、夢を見て行った人、そういう世紀だったから…
しかしもちろんそうではない。それではもし歴史の重みが現在と未来にこれほど重くのしかかることがあるとすれば、歴史家の仕事の一部がその重みを解除しようとすることにあることはたしかである。すなわち、たいていの抑圧の形態は構築されたものであるから脱構築されることが可能であるということを示すこと、現在あるものが必ずしも過去にあったとは限らず、したがって未来にあるとも限らないということを示すこと、である。この意味で歴史家は社会批判者でなければならない。というのは、過去が現在や未来を抑圧する一方で解放もするのは、そういう批判という手段によってであり――どんなに矛盾しているように見えようとも、歴史家は過去自体に対して両方の行為を同時におこなっているのだから。
 過去が現在を解放するというのはどういう意味かということを知るために、きわめてありふれたミクロな状況、つまり一人の若い人が彼女あるいは彼が何らかの点で「異なっている」という意識を持って成長しているという状況から始めよう。どんな点でもよい。民族としてでも、人種としてでも、性的嗜好においてでも、経済的あるいは社会的地位においてでも――名前は勝手につけてよい。変わらないのは孤立の感情、群集のなかの一人ぽっち、「彼ら」のうちの一人になれないことという感情である。そして子どもたちがお互いにきわめて残酷になりうるという事実は――おとなが子どもに対してどんなことをしているかは言うまでもなくーこの孤独さを耐えやすくするものではない。
 つぎに、あなたはじつは一人ではないということ、他の人も時間や空間を隔てて同じ経験をしており、あなたを「異なっている」としている基準がじつはいつもそこにあるわけではないということを知るときの救いの感覚を想像してみよう。自分が同性愛を考え出したと絶対的に信じている――多くの人が最初はそうであるように――若者が、たとえばミシェル・フーコーやジョン・ボズウェルを読んだとき、どんな影響を受けるだろうか、考えてほしい。つぎにもっとひろい焦点に移ろう。たとえばW・E・B・デュ・ボアの奴隷制と南北戦争後の再建期に関する作品が復活したときや、C・ヴァン・ウッドワードが南部の人種隔離はつねにあったわけではないということを示したときのアメリカ公民権運動の反応である。さらに視野をもっと広げて女性史運動が一九七〇年代や一九八〇年代に発展したときを取り上げてみよう。ここでの目的は女性抑圧の源は時間を超えたものではなく時間に縛られたものだということを証明することによってすべての女性を解放することにほかならなかったのである。

/ジョン・L・ギャディス『歴史の風景』
最近「史料に寄らず」「フィクションを盛り込み」つつ"あえて"歴史で創作することについて考えているんだけど(※ちなみにこういう「学級会」っぽい語りと語りの共有は大変野暮であり、個人的に嫌悪感がある)
フィクション化は、対象にある「概念的」「イメージ」「抽象的な全体図」みたいなものを、引き延ばしたり縮めたりするような、遠近法を使って描くような、デフォルメ手法の一種としてあって 絵を簡略化させるのと同様に物事を簡略化させることをフィクションが担っているのかなと感じた
  • 『「国語」という思想』に「非日本的日本語」という言葉が出てきて良いな
  • 私はこういう、非日本人・日本人の、日本語によってはいるが、日本的あるいは標準語的な価値観とは別としてある日本語、みたいなものに惹かれている
  • 「大衆」的とも呼べる日本的な価値観を選択せずに、しかし明確に日本語を選択する、みたいなもの
  • やっぱり浅くでいいので外国語もやるか 日本語しか知らないのに日本語の話をしていても限界がある気もする
  • 李良枝、リービ英雄、温又柔、金時鐘…の文学にはそういう非日本的日本語が詰まっているんだけど、日本人の書く文章にも非日本的日本語というものは確かにあるよなあと最近は感じていて、私もここを明確にして読んだり書いたりすべきかも
「満洲国」建設にせよ「大東亜共栄圏」建設にせよ、そこでは日本の支配圏の拡大のために、つねに「日本語の普及」という課題が最も重要な課題として挙げられていた。こうして、日本軍のあとにはかならず日本語教師がやってきたのである。

/『「国語」という思想 近代日本の言語認識』
#日本語/標準語
  • 私は歴史で見た点から、日本語の「標準語」に対して強い情動があるんだけど、私にはほとんど方言・訛りがないので自分ごととして身体的には標準語に対抗することはできずにいる
  • 日本語≒標準語が話せなかった人間(外国人だけでなくさまざまな日本人)が殺されるという風景 そういう意味で関東大震災は私にとっても1つのアポリアだ
  • 「爾今軍人軍属ヲ問ハズ標準語以外ノ使用ヲ禁ズ。沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜トミナシ処分ス」(『第三十二軍司令部日々命令綴』所収「球軍会報」一九四五年四月九日付)とある
  • その点で「スパイ防止」というものが沖縄の文脈でどう受容されているのかは気になっている
  • 日本語≒標準語を喋れない人間は殺されてしかるべき、という価値観に抗いつつ、しかし現実問題、私は標準語しか喋れない…という状況 別に恥ずかしくないけれど、多少の打破を計るべきかもな~とぼんやり思ってる
  • 「韓国語とかやるか」はその一つではある
  • とはいえ、モノリンガルを嘲笑する人間が好きじゃない
『友軍とガマ』に、"私(論文筆者・宮城晴美)は琉球政府の企画した『沖縄県史』で証言を採っていたけれど、証言した住民は皆「玉砕」と表現していた、が「玉砕」は軍人の使う用語で死を美化するものであること、琉球政府の企画自体が「集団自決」だったことから、その「玉砕」を「集団自決」に変えて記載した。後年になって「集団自決」という言葉自体も正確ではないという意見が出て、今まで記録されてきた「集団自決」をどう継承すべきなのか困惑している"とあって、たいへん興味深いな
そういう意味では立ち読みした『戦争みたいな味がする』は参考図書になりえるだろうけど、あれは絶対に読んでいてつらくなる

日本と日本人であること(ある集団に否が応なしに「ある」こと)を根拠にしないようにしているけれど、とはいえ歴史などでの日本の行ったいわゆる「加害」などに言及があるとそれなりに苦しく感じるものもあり

でも私は日本人であることを強いアイデンティティにはしたくない……が、その苦しさも大切かもしれない、とも思う
何故なら、日本の戦争犯罪を語る時に「自分だけは日本人であることを『免罪』されている気になっている日本人」も一定数いるため

いや韓国系アメリカ人の書いた『戦争みたいな味がする』の冒頭に、「母親が日本に居たことがあるがその時の出来事を聞いても一切喋らなかった」という記述があって、母親の手料理が「戦争みたいな味がする」理由の大元は、そもそも日本の植民地支配にあったはずで……という本だった ような気がする 立ち読みの一部なので分からないが…

世代間の伝播について考えているし、読みたい

「世代間伝達」という言葉がちゃんとあるんだ!!すごいぞ!!今回天ジャ二次創作小説で書いたのはこれです 皇帝一族と現代日本の世代間伝達の共振をしました

#「血族の災厄」(天幕のジャードゥーガル)
#『天幕のジャードゥーガル』
九州の地震のニュースに接して「今は外国人ばかりで治安が悪い!避難所には自警団を作って武装すべきだ!」という投稿があって、何も知らずに真面目に言っているんだったら日本史における地震の文脈としてあまりに正統的すぎて「美しさ」すら感じるし、皮肉で言っているんだったらやはり地震文脈として完成度が高い これは完全に皮肉だけど…
  • そういえば『奈落の神々 炭坑労働精神史』に佐渡金山の話が一瞬だけ出てくる 私は重ねて炭坑、といいつつも金山を知らない
  • いや本当に戦争は反対なんですよ 「渺渺録」にも反映すればいいのかなぁ でもどちらかというとおそらく植民地主義なんですよね いやでも戦争と植民地主義って双子ですよね…
  • 一定の再現は求めているけど、「伝えたい」「考えてほしい」みたいな、それこそ欲求、読者への要求が希薄なのかも
  • 「日本には、アジアの国々を侵略した歴史を持つからこそ、占領や植民地支配の暴力を繰り返さない、繰り返させないというつながり方だってあり得る」(岡真理 インタビュー「「人間の物語」を伝える責務」『現代詩手帖 2024年5月号 パレスチナ詩アンソロジー 抵抗の声を聴く』)という接続法、当たり前なんだけどこの当たり前がいま確立できているとは思えない…だからこの論理を誰でもわかりやすく理解できるように「渺渺録」でえがく、のか…?とぼんやり考えるなど
  • 「私たちの身に起きてはならない不正は、誰の身にも起きてはならないという認識、それが連帯ですよね」と同インタビューにあり、連帯までは読者に示さないが、不正があったという事実と不正が齎したあらゆるものども、という視点…

#「渺渺録」(企業・組織擬人化)
◆前編 手書きブログで亀先生に「発見」されたトマトスープ先生~歴史マンガ描きの梁山泊!?~ | Souffle(スーフル)
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手書きブログ時代の歴史創作界隈の話が……

#『天幕のジャードゥーガル』
『天幕のジャードゥーガル』原作・トマトスープ先生インタビュー|「学ぶこと」は何のためにある? シタラたちの人生をを通して、自分の答えを探してほしい | アニメイトタイムズ
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モンゴル史を調べて好きになった人はきっと『天幕のジャードゥーガル』を嫌いになる、みたいな一節があって、この感覚に対しての一種の了解は私にもある
#『天幕のジャードゥーガル』
『緑の牢獄 沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶』沖縄西表炭坑に眠る台湾の記憶の話なのかな…と思ってたけど、同名のドキュメンタリー映画を撮るにあたって、「歴史ドキュメンタリーとはどうあるべきか?」歴史との距離をどう取って行くか?の話も収録されており、『HHhH』に似た逡巡文章が多数ある 良い
  • なにかの悪や暴力があって、それを批判する時に、悪口を言うことに気持ちよくなっちゃったり、皆で批判することで「仲間意識」のようなものが芽生えたりする負の側面もあると思うんだけど
  • それはともかく、批判ではなく漫画などで表現をする時に、いかにその悪や暴力を批判しつつ、上記の負の側面を冷静にはねつけて、その上で孤独に自分の言葉でその悪や暴力を描写する(また批判意識を向ける)のかを考えている
  • そういう意味では歴史ドラマや歴史アニメが"作品"の主旨とは逸脱して、"歴史"の悪や暴力の部分を過剰に叩くこと、叩くことである種の連帯感を持つことで視聴者としての表現を得る姿勢が苦手かもしれない
  • あと最近気づいたけど、歴史ものでは、私が赤と表現しても読者は青だと思う時があって、その時に「漫画だから」「フィクションだから」が言い訳になって、完全に描写が赦されるのかというと微妙なんだ…なので、読者にいかに軛を付けるか(感情を制御するか)までもある程度筆者は義務として考えるべきかもしれない
  • 三菱の零戦カッコイイ😍という気持ちもあれば炭鉱…という気持ちもあって、それと向き合う時に勿論😍😍だけだと明らかに無視された事実が残るんだけど
  • だからといって加害性!零戦が零戦を作ることが戦争で略!という話に"漫画で"持っていくと何と言うか、漫画の限界が見えている感覚がある…という話
  • 漫画として読者にというよりは、人間が人間に何かを語りたい時に、やはり加害性!という話ではなく何故私が😍となったのかが重要
  • それか本当は人に語りたいのではなく共に考えたいのかもしれない、その時にこの悪魔的な「魅力」を否定して表現するよりは共に💓を分かち合って共振すべきなのではないかと
  • 最近はなんかカッコイイ😍が一番姿勢として正しい気がしてきた
  • 前述の語りすべてが青臭い、という一点において言えば、このカッコイイ😍は圧倒的な強さがある…
田中小実昌「魚撃ち」に、中国戦線へ行く時に『新約聖書』『万葉集』を持っていくシーンがあるな 本当に『万葉集』なんだ
>詳細が読めていないけど田中小実昌「岩塩の袋」 中国戦線では塩が貴重で南京を出発する時に内緒で貰ってきて隠して背負っていたのに、結局捨てることになってしまい、捨てられた塩を勝手に舐めてふと思い出すのが、新約聖書のマタイ伝第五章十三節(「汝らは地の塩なり」…)なのが 良い
>「戦前の日本人は戦争開戦に熱狂した"愚かな"人たちだった」言説に微妙に抗いたくなるのはこういう時で、むしろ近代を求めて知識の普及に努めてきた人たちがいかに戦争に抗うことがなかったか/できなかったか、あるいは植民地政策を敷くことにいかに無意識で無感動的だったか、に視点を置くべきなんじゃないかと感じている
 中山路を揚子江へ向う大通り、左側の高い柵について支那人が一列に延々とならんでいる。何事だろうとそばを通ると、私をつかまえるようにして持っているしわくちゃな煙草の袋や、小銭をそえて私に差出し何か悲愴なおももちで哀願する。となりの男も、手前の男も同じように小銭を出したり煙草を出したりして私に哀願する。これは何事だろうと思ったら、実はこの人々はこれから銃殺される人々の列だったのだ。だから命乞いの哀願だったのである。それがそうとわかっても私にはどうしてやることも出来ない。一人の人も救うことも出来ない。
 柵の中の広い原では少しはなれた処に塹壕のようなものが掘ってあって、その上で銃殺が行われている。一人の兵士は顔が真赤に血染まって両手を上げて何か叫んでいる、いくら射たれても両手を上げて叫び続けて倒れない、何か執念の恐ろしさを見るようだ。戦争とはかくも無惨なものなのか、槍で心臓でも突きぬかれるようなおもいだ、私はこの血だらけの顔が、執念の形相かそれから幾日も幾日も心に焼付けられて忘れることが出来ないで困った。私は揚子江でも銃殺を見た。他の場所でも銃殺されるであろう人々も沢山見たが余りにも残酷な物語はこれ以上書きたくない。これが世に伝えられる南京大虐殺事件の一駒なのであるが、戦争とはどうしても起る宿命にあるものか、戦争をやらないで世界は共存出来ないものなのだろうかとつくづく考えさせられる。
/『映像研究(9)』「カメラと人生 白井茂自叙伝6」
『カメラと人生 白井茂回顧録 ユニ叢書 3』どこにも在庫がないユニよ~
だけど、雑誌に掲載されたものがデジコレで読めるのだ…

ちゃんと通読できていないが、「上海」「南京」などの戦線後方記録映画を撮っていた関係者?で、虐殺事件時の様子も簡潔に言及されている
ポテチの袋に絵を描いている様は「この世界の片隅に」のすずのようで、工夫して楽しく不便を乗り切るをやるうちに、いつのまにか戦争に加担している、というXの言説…
って、圧倒的な「わかりやすさ」があって、なんというかこの種の「わかりやすさ」と戦争の語りの掛け合いって良くない気がしている
>『洋服と日本人 国民服というモード』の序章の文章 本当に良い
>>戦争を語ることは難しい/刻々と戦況は変わり生活は変化したのでどこを切り取っても代表にはならない/振り返ることで物語化され整合化された個人の記憶はあてにならない/戦争を語ること自体が再び戦争を物語化してしまう制度を再生産することがある/ゆえに総動員体制化の生活を「総合的なもやもやとしたもの」として再構成し提示することは困難である(が本書の主旨はそこにある)…
#近代


第二に、功罪半ばする近代化の”罪”の部分に光を当てたいと思う。本書の場合、それは繁栄の陰に潜む無数の悲惨な死者と遺族の悲嘆という現実を投射することである。つまり大量生産・大量消費といった時代動向に即応した大規模な機械化が招く多数の労働災害(ことに”挟まれ”、”巻き込まれ”による大量異常死の出現)という悲劇がどのように受け止められていったかを、個々の当事者の立場から問い直すことであり、そこに伝統的な思考がいかに連動していったかを分析の軸とする作業である。これは換言すれば、労働災害の発生が解釈されていく際のメカニズムを、いわば「グラウンド・ゼロ」の地平から検証することである。
/『八幡製鉄所・職工たちの社会誌』


植民地主義は戦争につながっている。その富国強兵を国是とした日本の近代化を、産業構造の基盤で支えたものは石炭だった。そして石炭を地底から掘り出したのは、炭坑で働いた男たち女たちであった。
/「石炭産業の崩壊に立ち会って」『精神史への旅 2地熱 森崎和江コレクション』


本書には、表現を和らげる潤色、ノスタルジア、ロマンチックな美辞麗句はない。わたしは、東南アジアの植民地港湾都市という、発展途上の「近代」の過酷な景観のただ中を生きた日本人女性たちの、悲痛、苦悩、混乱、達成、愛情や大きな犠牲に集中することに力を注いだ。この社会史を通して、過去の日本人娼婦たちは、かつてのかの女らに関わりのあった事柄や、二一世紀初頭のいま、わたしたちに関わりのある事柄を、現世代に語りかけてくる。シンガポールのからゆきさんの人生のきわめて個人的な記録が、わたしたちに語りかけてくるのだ。娼館のドアの向こうから、かの女らの謙虚さと辛抱強さという昔かたぎの美点を、貧困と社会的不平等を、社会的な抑圧と悲哀を、情熱と孤独を、そして切望や死を。
/「日本人読者への「序文」」『阿姑とからゆきさん』


絢爛たるスペクタクルとともに、改造と文明の名で押し寄せた近代は、植民地都市の陰鬱な景観を貫通し、女性たちの空間、閨房にまで至った。
/『京城のモダンガール』


沖縄で詩を書くとはどういうことか?それはことばが〈近代〉として充分に体験されていないところで、しかも物質としての〈近代〉がはげしい速度で都市を変客させ、村の〈共同体〉を破壊していく情況に挾撃されつつ自らのアドレッセンスを追訊する魂の行為となる以外にないだろう。地方に在りながら地方を対象化するということは、単なる土着への依拠によっては果されないし、また土着からの離反として言葉を円環化するところにもあり得ない。土から身を離する論理を縦深化すると共に、その論理化の過程で風土の肉感を体現すること――これ以外に地方に在って詩を書く方法はないのではなかろうか。それを前提にする限り、どんな言葉の実験も可能だし、どんな思想を方法化するのも可能だといえよう。
/「感受性の変容」『情念の力学』


また,近代は,単に小説なるものを可能にしただけでなく,近代という時代それ自体が,小説的な語りを要請したのではないか.近代において社会が体験するドラスティックな変容.国民国家間で生起する戦争には,国民すべてが否応なく巻き込まれる.植民地主義の侵略によって,祖国にいながらにして,自分たちが帰属する,そして自分たちに帰属するはずの大地から疎外されていくという不条理.近代という時代が,そこに生きる人間たちにもたらすトラウマ(精神的外傷)その不条理さゆえに言葉で名づけ,「経験」として飼い慣らし、過去に放り込むことのできない〈出来事〉の暴力.そうした,言葉では語ることのできない体験,〈出来事〉を,物語として語るという時代の要請を,小説は自らの身に引き受けたのではないだろうか.言いかえれば,小説の語りには,そうした出来事の不可能な分有の可能性が賭けられているのではないだろうか.
/岡真理『記憶/物語』(思考のフロンティア)
『ディクテ』「歴史」に「死ではなく、死に-つつあるということ」という一文があって、これは心にとどまっている…

そういう意味では、なんというか、私が戦没船のことを語るたびに戦没船は「沈んだ」のではなくて「沈み続けている」のかも、私の記憶と口上で

歴史家を悩ませる職業上の悪夢は、私たちが叙述の対象としている人物が、ハムレット王の幽霊のように、どうにかして帰ってきて、私たちが書いたことについてどう考えているかを教えてくれることである。彼らの観点から言えば、私たちは疑いもなく抑圧者であり、あるいは拷問者であり、あるいは死刑執行人でさえあるという印象を与えるであろう。
/『歴史の風景』
尚ほ玆に逸することの出来ぬのは、西伯利の奥地まで入込んでゐた娘子軍の愛國的行動である。一口に醜業婦といへば士君子の口にするさへ厭ふ所であるが、彼女等は夙に西伯利の奥へ奥へと進んで行つて我が同胞の發展して行く第一線に魁けをなし、一種の嚮導者たる任務を盡す一方、窃かに祖國に報いんとする愛國的行動を心掛け、實に涙ぐましき程の努力をしたのである。特に彼等は國事の爲めに盡瘁する軍人や志士等が奥地へ入り込み来る場合には、進んで此等の士の世話をなし、その行動を援助することを祖國に報ゆる所以の道と考へ、實に思ひ寄らざる勲章を樹てることが度々あつた。娘子軍は多く九州方面の出身の者が多かつたが、氷雪肌を劈く西伯利の曠野の果まで進むに當つても純然たる日本の服装をなし、僅に一枚のシヨールを纏ふて寒さを凌ぎつゝ突進するのが常であつた。

/『東亜先覚志士記伝 上巻』
#「渺渺録」(企業・組織擬人化)