#近代
第二に、功罪半ばする近代化の”罪”の部分に光を当てたいと思う。本書の場合、それは繁栄の陰に潜む無数の悲惨な死者と遺族の悲嘆という現実を投射することである。つまり大量生産・大量消費といった時代動向に即応した大規模な機械化が招く多数の労働災害(ことに”挟まれ”、”巻き込まれ”による大量異常死の出現)という悲劇がどのように受け止められていったかを、個々の当事者の立場から問い直すことであり、そこに伝統的な思考がいかに連動していったかを分析の軸とする作業である。これは換言すれば、労働災害の発生が解釈されていく際のメカニズムを、いわば「グラウンド・ゼロ」の地平から検証することである。
/『八幡製鉄所・職工たちの社会誌』
植民地主義は戦争につながっている。その富国強兵を国是とした日本の近代化を、産業構造の基盤で支えたものは石炭だった。そして石炭を地底から掘り出したのは、炭坑で働いた男たち女たちであった。
/「石炭産業の崩壊に立ち会って」『精神史への旅 2地熱 森崎和江コレクション』
本書には、表現を和らげる潤色、ノスタルジア、ロマンチックな美辞麗句はない。わたしは、東南アジアの植民地港湾都市という、発展途上の「近代」の過酷な景観のただ中を生きた日本人女性たちの、悲痛、苦悩、混乱、達成、愛情や大きな犠牲に集中することに力を注いだ。この社会史を通して、過去の日本人娼婦たちは、かつてのかの女らに関わりのあった事柄や、二一世紀初頭のいま、わたしたちに関わりのある事柄を、現世代に語りかけてくる。シンガポールのからゆきさんの人生のきわめて個人的な記録が、わたしたちに語りかけてくるのだ。娼館のドアの向こうから、かの女らの謙虚さと辛抱強さという昔かたぎの美点を、貧困と社会的不平等を、社会的な抑圧と悲哀を、情熱と孤独を、そして切望や死を。
/「日本人読者への「序文」」『阿姑とからゆきさん』
絢爛たるスペクタクルとともに、改造と文明の名で押し寄せた近代は、植民地都市の陰鬱な景観を貫通し、女性たちの空間、閨房にまで至った。
/『京城のモダンガール』
沖縄で詩を書くとはどういうことか?それはことばが〈近代〉として充分に体験されていないところで、しかも物質としての〈近代〉がはげしい速度で都市を変客させ、村の〈共同体〉を破壊していく情況に挾撃されつつ自らのアドレッセンスを追訊する魂の行為となる以外にないだろう。地方に在りながら地方を対象化するということは、単なる土着への依拠によっては果されないし、また土着からの離反として言葉を円環化するところにもあり得ない。土から身を離する論理を縦深化すると共に、その論理化の過程で風土の肉感を体現すること――これ以外に地方に在って詩を書く方法はないのではなかろうか。それを前提にする限り、どんな言葉の実験も可能だし、どんな思想を方法化するのも可能だといえよう。
/「感受性の変容」『情念の力学』
また,近代は,単に小説なるものを可能にしただけでなく,近代という時代それ自体が,小説的な語りを要請したのではないか.近代において社会が体験するドラスティックな変容.国民国家間で生起する戦争には,国民すべてが否応なく巻き込まれる.植民地主義の侵略によって,祖国にいながらにして,自分たちが帰属する,そして自分たちに帰属するはずの大地から疎外されていくという不条理.近代という時代が,そこに生きる人間たちにもたらすトラウマ(精神的外傷)その不条理さゆえに言葉で名づけ,「経験」として飼い慣らし、過去に放り込むことのできない〈出来事〉の暴力.そうした,言葉では語ることのできない体験,〈出来事〉を,物語として語るという時代の要請を,小説は自らの身に引き受けたのではないだろうか.言いかえれば,小説の語りには,そうした出来事の不可能な分有の可能性が賭けられているのではないだろうか.
/岡真理『記憶/物語』(思考のフロンティア)
第二に、功罪半ばする近代化の”罪”の部分に光を当てたいと思う。本書の場合、それは繁栄の陰に潜む無数の悲惨な死者と遺族の悲嘆という現実を投射することである。つまり大量生産・大量消費といった時代動向に即応した大規模な機械化が招く多数の労働災害(ことに”挟まれ”、”巻き込まれ”による大量異常死の出現)という悲劇がどのように受け止められていったかを、個々の当事者の立場から問い直すことであり、そこに伝統的な思考がいかに連動していったかを分析の軸とする作業である。これは換言すれば、労働災害の発生が解釈されていく際のメカニズムを、いわば「グラウンド・ゼロ」の地平から検証することである。
/『八幡製鉄所・職工たちの社会誌』
植民地主義は戦争につながっている。その富国強兵を国是とした日本の近代化を、産業構造の基盤で支えたものは石炭だった。そして石炭を地底から掘り出したのは、炭坑で働いた男たち女たちであった。
/「石炭産業の崩壊に立ち会って」『精神史への旅 2地熱 森崎和江コレクション』
本書には、表現を和らげる潤色、ノスタルジア、ロマンチックな美辞麗句はない。わたしは、東南アジアの植民地港湾都市という、発展途上の「近代」の過酷な景観のただ中を生きた日本人女性たちの、悲痛、苦悩、混乱、達成、愛情や大きな犠牲に集中することに力を注いだ。この社会史を通して、過去の日本人娼婦たちは、かつてのかの女らに関わりのあった事柄や、二一世紀初頭のいま、わたしたちに関わりのある事柄を、現世代に語りかけてくる。シンガポールのからゆきさんの人生のきわめて個人的な記録が、わたしたちに語りかけてくるのだ。娼館のドアの向こうから、かの女らの謙虚さと辛抱強さという昔かたぎの美点を、貧困と社会的不平等を、社会的な抑圧と悲哀を、情熱と孤独を、そして切望や死を。
/「日本人読者への「序文」」『阿姑とからゆきさん』
絢爛たるスペクタクルとともに、改造と文明の名で押し寄せた近代は、植民地都市の陰鬱な景観を貫通し、女性たちの空間、閨房にまで至った。
/『京城のモダンガール』
沖縄で詩を書くとはどういうことか?それはことばが〈近代〉として充分に体験されていないところで、しかも物質としての〈近代〉がはげしい速度で都市を変客させ、村の〈共同体〉を破壊していく情況に挾撃されつつ自らのアドレッセンスを追訊する魂の行為となる以外にないだろう。地方に在りながら地方を対象化するということは、単なる土着への依拠によっては果されないし、また土着からの離反として言葉を円環化するところにもあり得ない。土から身を離する論理を縦深化すると共に、その論理化の過程で風土の肉感を体現すること――これ以外に地方に在って詩を書く方法はないのではなかろうか。それを前提にする限り、どんな言葉の実験も可能だし、どんな思想を方法化するのも可能だといえよう。
/「感受性の変容」『情念の力学』
また,近代は,単に小説なるものを可能にしただけでなく,近代という時代それ自体が,小説的な語りを要請したのではないか.近代において社会が体験するドラスティックな変容.国民国家間で生起する戦争には,国民すべてが否応なく巻き込まれる.植民地主義の侵略によって,祖国にいながらにして,自分たちが帰属する,そして自分たちに帰属するはずの大地から疎外されていくという不条理.近代という時代が,そこに生きる人間たちにもたらすトラウマ(精神的外傷)その不条理さゆえに言葉で名づけ,「経験」として飼い慣らし、過去に放り込むことのできない〈出来事〉の暴力.そうした,言葉では語ることのできない体験,〈出来事〉を,物語として語るという時代の要請を,小説は自らの身に引き受けたのではないだろうか.言いかえれば,小説の語りには,そうした出来事の不可能な分有の可能性が賭けられているのではないだろうか.
/岡真理『記憶/物語』(思考のフロンティア)
一次創作と擬人化(艦船擬人化/企業・組織擬人化)を描いています。各公式、実在の組織・団体とは一切関係がなく、一個人が趣味で描いたものを掲載しています。
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