渺渺記

思念思索・歴史との距離感…など
良い…と思ったらぜひ押してやってください(連打大歓迎)

船舶擬人化創作漫画同人誌『春のまひる』(2026/2/22発行)の解説文「「春のまひる」解題」です

今の世では「地獄船」と呼称されることとなった貨客船・鴨緑丸をえがくにあたって思慮したことへの言及となります
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映画「落下音」パンフレットに、滞在した空き家の農家にそのまま50年以上は昔の住人のスナップ写真が残っていた(女たちが同じ農家の中庭からこちらを見つめている写真)のを発見したことに触れて、"同じ場所で時間の層が同時に存在すること、誰かがごく日常的なことをしている傍らで別の誰かが人生を変えるような切実な体験をしているというその同時性に惹かれた"と書かれていて良い
  • これは私もよく考える 氷川丸だって80年前は、私が大さん橋方面を眺めているプロムナード・デッキの同じ場所に傷病者を載せていたわけで…
  • 貨客船の次の瞬間に現代の次の瞬間に病院船の瞬間が写し出される氷川丸映画はある
船の越境論

 船に感情というものがあったとしたらという観点に立って特設艦船の心情や悲喜を探ってみたいと思う時がある。特設艦船とは軍隊により接収され改造・改装された船のことで、貨客船・貨物船から小型漁船まで多くの船を網羅する。それら船の共通点は戦わないこと、戦うための船ではないことであり、軍の徴用や買収は戦争への参加を押しつけられた切符であった。多くの船にとっては片道切符となった。早々に戦没する宿命だったからである。
 戦わない船の戦争。
 兵士も民間人も平等の命、一人の人間である。艦が沈んで光栄の上等、船が沈んだら悲しみをもって悼む、という感情はただの感傷であると退けたい。しかしなぜ民間船が、民間船だった艦が戦没することに私は執着するのだろう、と考えた時に思うのは、世界文学への屈折した愛着と、その文学が永遠の命題とする異郷での客死である。あるいはその異郷で経験するさまざまな障害だろうか。自国の常識はそこでは非常識。彼女の話す母国語はそこでは異国語である。移民の彼女はその国に――その海に、その軍隊には容易に同化できなかったかもしれない。そんな二十世紀の人間たちの痛みを同じくアジア・太平洋戦争下の船たちは背負っていたかもしれなかった。馴染んだ横書きの航海日誌ではなく与えられた戦闘詳報で自らの栄光を語るということ。
 船は海を往くことが幸せ、とだけ考えれば、こんな甘い郷愁など抱かなかっただろう。道具は使われてこそ価値がある――それが多少違った使い方であろうとも。病院船はそれでもやはり、いやあるいは、だからこそ(・・・・・)美しかったはずだ。
 けれどそこに船の悲しみを見出してしまうのは、船ぶねの抱く文化の麗しさとそれを基調とする人びとの文化の麗しさにほかならない。それはもちろん貨客船の抱える一等社交室である。そこにあるグランドピアノである。あるいは漁船の上に翻る大漁旗の旗の金刺繍の輝きでも良い。海と共にあった船、と共にあった人びとの抱いてきた素朴な民衆文化は戦火で荼毘に付すにはあまりに惜しいものだった。
 あえてその喪失に美学を見出すこともできただろう。オフィーリアはさいごに水死するから美しいのだ。立ち上がって再び陸に上がることなど到底許されない。あの横たわる退廃的な死のにおい、微睡みにも似た死への緩やかな移行の情景は、憧憬を伴って生者である私たちの想像力を豊かに刺激する。貨客船香取丸はインドネシア海域で雷撃を受け海へと傾斜したとき、サロンにあった大型ピアノが大きな不協和音を奏でながら滑っていった、という……。太平洋戦争開戦すぐの出来事であった。船は陸軍に徴用されていて、陸軍部隊が乗船していた。が、未だ船内には乗組員や平時の物資が乗っていた。そのピアノはかつての栄光を留めているもののひとつだった。船と一緒に海へと転がり落ちてゆく陸軍兵士、乗組員、ピアノ、かつての栄光。沈没したその日はクリスマス・イブであった。
 二律背反たる船の生と船の死という命題は、戦場の船というものを仰ぎ見るときにいちばんの難題となって私たちの心を刺すのだろう。生の鮮やかさと死の沈黙。それは人間を見るときも同様である。人間とおなじようにふねを見るということ。人間のうつわとしてのふね。
 人間の様相を写すものとしてふねを見定めていきたい。
戦時の軍艦(連合艦隊)に比べて戦時の商船(貨客船・貨物船)の史実や被害は陰に隠れがち、と思い商船だけを描くと、小型船は?機帆船は…護衛艦艇だってあまり……という話になり 忘却行為の反復ではあるんだよな
豪華なディナーを作っていた料理人やベーカー、鮮やかな波の上の社交界を支えていた給仕、ボーイたち、航海士や機関員はそうだとしても、それら先進かつ美しき文化の担い手たちが性急な時代の荒波に飲まれて戦火の海にわらわらと落ちていく様、この1から1への移行の過程が未だにいまいち想像できない
  • いつも言うか考えて言わないでいるんだけど あの徴用という出来事についてひとと問答した時にあっさりと「徴兵制を否定するようなものですものね」という言を頂いたことがあって考え込んでしまった、し、なにか一つの指数になっている
  • というのは、あの時代に戦争に参加させられる、という点において徴用だけにすべての「悲劇性」を求めるのは帳尻が合わない、徴兵された兵の死と徴用された軍属の死は――もちろん、戦場という軍隊の主戦場であるがゆえにそこに至るまでの処遇などには差があって、ゆえに後者の悲惨さはなお増すのだが――おなじ1であって、そこにヒロイズムや怒りや悲しみを抱くのはおかしいのではないか、軍属という立場が悲劇なのか死というものが悲劇というべきなのか、そもそもそれを招いたあの時代の戦争行為や軍国主義自体を一考すべきなのではないか、(あの徴兵制を徴兵制の時代を戦争の世紀をどこまで否定すべきなのか?否定できるのか?)という意味なのかな(と、私は捉えた)
  • 軍人によって虐待状態に置かれた、という多くの証言がある もちろんそれを否定しているとか無視しているとかではなくて もしも「悪」だったのは徴用して船員を劣悪な状況に置いた日本軍…だとか、そういう話を私がしたいのであれば、それだけでなくなぜその軍や悲惨な状態の戦争というものがあったのかということ、徴用と同じようにある一人の人間が徴兵されたということ、船員と同じくあの海にいたこと、そして(船員を虐待したかもしれない、いずれにせよ)やはり死んだこと、そうあったこと、あの時代に戦争があったということ、あの軍国の時代を、あの当時の日本というものを考える。その次に局地的な次項としての帝国の海運や戦時下の船員などを展望すべきなのかなーと考えてもいる こちらは私が言葉を頂いた後に考えたことだけど
ものにもよるけど船橋は艦橋と違って横に広く緩くカーブをえがいているので、艦橋と同じ感覚で狭く四角く描くとよくないなと
『低俗霊DAYDREAM』ヒロインは金がなくSM嬢をしているが、時おり東京都庁環境局の生活対策課の父親経由で「口寄せ」を依頼されており、その課は一般市民の「忌物苦情相談」に応じている、しばしば住宅局住宅経営部保全課や警視庁と管轄問題で揉めたり協力していたりしているところが面白い
…んだけど、現代もので、口寄せ屋のヒロイン自体は宗教に属していないのに、口寄せ屋が神主に「外法の者」と呼ばれてたり祝詞が重要な役割をはたしていたりしているの 良い
  • 変なタイミングで神道が出てくるがしかしそのタイミングは偶然でなく必然であること、作品の主題はまったく別のところにあるのにいきなり日本神話が出てくる不協和音、まあまあ好きで、それは『影の獄にて』の例の一文(「アマテラスと臍の緒が切れていない日本民族」)とか『ねじ曲げられた桜』全編とかのはなしで
  • 海軍の艦も民間の船でも、日本神話の挿入をやると言っても「変なタイミング」とはならないのよ ふねって結局はそういう建造物だから 神話の線上にあって未だ神の手から零れ落ちていない、
2024年8月17日のスペース
#スペース
x.com/samishira/status/18243969864073257...

『おおきく振りかぶって』と李良枝作品はなんか似ている→身体性が似ている気がする
→おお振りは17巻まで読んだ→コンプレックス感がひどく深くて良い→それは「ハウルの動く城」にもあるが、おお振りはむしろ暴力的なものを抱えている
→短編集『家族のそれから』の、同性愛者と異性愛者の男子高校生の交流を描いた短編「ゆくところ」が荒削りだけどすごい
→(※しばらく沈黙…)
→おお振りは20年前の作品→現代設定なのにガラケーを使っている→現在の連載もガラケーなんだろうか?私はこれを「おお振りガラケー問題」と呼んでいる→この暴力性は何だろう?精神的に引き吊るような痛みがある→一巻で「腕を折るぞ」と言われているが、そういう身体的なものではなくて、こうの史代のような性的のものを感じる、おお振りとこうの史代と李良枝は似ている
→李良枝は在日コリアンの作家で私は「かずきめ」が好き→母娘が在日コリアンで、日本人の家族(父、兄弟、妹)と再婚する話で、一番暴力性がある……これがおお振りに似ている→李良枝の重要ワード「身体性」が、高校野球の身体性に似ているのかも?→在日コリアンだからという作品ではなくて世界性を持った文学になっている、という解説を読んだことがある、私もそう思う→姉が恋人に言う台詞がある
→「いっちゃん、また関東大震災のような大きな地震が起こったら、朝鮮人は虐殺されるかしら。一円五十銭、十円五十銭と言わされて竹槍で突つかれるかしら。でも今度はそんなこと起こらないと思うの、あの頃とは世の中の事情が違っているもの。それにほとんどが日本人と全く同じように発音できるもの。ね、いっちゃん、それでも殺されることになったら、私を恋人だってしっかり抱きしめて、私と、私と一緒にいてくれる?いえ、今度は絶対に虐殺なんてされません」
→すごい台詞。身体性と暴力とジェンダーがある。これには続きがある
→「でもそれでは困る、私を殺してくれなくちゃあ。私は逃げ惑うの、その後ろを狂った日本人が竹槍や日本刀を持って追いかけてくるわ、私は逃げきれなくて、背中をぐさっと刺されて、胸も刺されて血だらけになってのたうち廻るの。いっちゃん、あれは痛いのね、とっても――この間いっちゃんが研いだ包丁を掴んでみた。そしたら身体がびりびりとしびれて興奮してきて、まるでセックスをしている時のような気持ちになったわ。私、自分が何故お料理が嫌いなのか解ったような気がした。恐いのよ、あのびりびりした感じがたまらなかったのよ。それでね、その包丁で胸のところと手首を切りつけてみたの。痛かった。それに血が、本当にわっと出てくるんだもの。ぐさりとやってみたかったけれど、もっと血が出るのかと思うと恐くなって――今度は金槌で脚を叩いてみたわ、そしたらやっぱり痛かった。ねえ、いっちゃん、私は虐殺されるかしら、ねえ、どうなるの、もしも殺されなかったら、私は日本人なわけ?でもどうしよう、あれは痛いものね、血がいっぱい出るんだものね」
→ジェンダーと身体性、民族が一緒くたになっているすごい台詞→身体性、「ぐさっとさされて」…
→というのがおお振りにもある気がした?→ピッチャーの榛名元希は怪我をしていて大荒れしている、キャッチャーの阿部にとにかく球をぶつけている、男子高生/中学生時代→ひどく生々しい感じがある→「腕を折るぞ」が生々しい、主人公が弱気でブルブルしていることの理解度・解像度が高い、生々しい、絵が細かいのかな
→おお振りはカタストロフ(破滅的状態)が似合う作品、人間性・人間関係がごちゃごちゃになって映える作品、パロディが合いそうな作品→作者は下ネタを言いすぎて女子高生に引かれた、と書いているがそれが反映されているような気がする、こうの史代も「男と女はわがりあえない」と言っている、漫画「古い女」もある→両者はやはりどこかでジェンダーというものを通過している、まあおお振りは男子高生ばかりだけど……下ネタをいう男子高生とか
→阿部が怪我をするシーンが有るが、これは敵相手がわざとけがをさせた話?いきなり話がブラックだった、ひどく生々しさがあった→高3は野球で負けちゃった後、テレビの野球試合が見れない、とかこの機微はすごくよくわかる→人間の闇の描き方が上手い→おお振り二次創作は身体性と暴力という話に持って行けばいいのかな……「かずきめ」みたいなおお振り二次創作小説……
→歴史性と身体性とジェンダーがごっちゃになって「あれは痛いものね、血がいっぱい出るんだものね」と全てに刺さっている→まあこれをおお振りで出しても仕方ないのか……
→「ゆくところ」は濃厚な暴力性がある→登場人物の足が不自由で「お前の劣等感好きだよ」「障害者ってどんな感じ?」「おまえって障害者?」とか言われる、この地続きにおお振りがある
→「著者、昔何かあった?」がこうの史代にもひぐちアサにも野田サトルにもある
→「アル中が何だかわかんのか、CTかけたら頭がスカスカだったんだぞ、”敵が来たー”とか叫ばれてみ、家ん中スゲーすさみようだぞ、一年かけて矯正してもって半年、一口でも飲めばすぐ戻んだぞ、アル中の子供もそうなりやすいって施設で言われてさ、友の会に誘われちゃったよ、オレまで影響受けちゃってんのあのクソ野郎」父親がアル中、母が「シンケイショー」という話をしてくる
→…二次創作をしたいからどう解題しようかなと思いつつ→花井の田島へのコンプレックスとか、高3はもう後がないとか、三橋がとても小心者で……→これはトラウマの話だ
→私は他の野球漫画を読んだ事がない→『のだめカンタービレ』が好き、理由はバトル漫画じゃないから→音楽漫画にはバトル漫画が多すぎる→バトル漫画は萎える、伊藤計劃も似たようなことを言っていたけど、登場人物が興奮するほどこちらは萎えてしまう→音楽漫画としてののだめ、野球漫画としてのおお振り→野球を知らないので、野球以外の要素を楽しんでいるはず→登場人物がトラウマや闇を抱えている、でもけっして暗くない
→こうの史代は「距離感」が上手い→女だから、広島県民だから感情的になる、というものがない、感情があるが滲みださない→漫画「古い女」は主張を感じる→ところですずさんには主義や主張はあった?義姉さんにも似たようなことを言われているけれど
→『この世界の片隅に』の主題ってなんだ?となる→あとがきにあるように、戦争漫画・平和漫画というより、戦時下の生がだらだら続いている漫画→「うちはこんなに納得できん!」で初めて銃後の妻、愛国者であることがわかる→すずさんが『この世界の片隅に』が主張したかったことってなんだ?
→朝鮮の旗が出てきたのはすずさんの生活上というより、著者が描きたかったこと/描かねばならなかったものなのかもと思っている→映画の台詞改変、「米」の話あれはスムーズで良いと思う
→私の漫画「大脱走」は脱走した話→占領期時代だったのであえてそうした→1971年の『日本郵船戦時船史』の時は逃げないで欲しい→三菱重工さんとカラオケして欲しい、重工さんに浅間丸の話を聞いたら「ぼくは今作ってる兵器の話しかしませんよ」とか言われる
→重工の長崎史料館は良い、ふねを愛していたんだな、となる→郵船さんにとっては橿原丸は隼鷹となる、重工さんにとってはどちらも製品の「ふね」→郵船さんが「私にとっては船は貨客船だったクヨクヨ」となるとまた脱走になってしまうかも→海軍に取られたというより送り出したというより主体性がほしい、「大脱走」は1948年だったのであえて脱走にしたけど
→すずさんの「暴力」発言は早すぎる、あそこで脱走すべきだったのではないか→結局その「暴力」は戦後数十年かけて語ったり語らなかったりするもの(いわゆる歴史認識)→旗を見て暴力となるのなら、玉音放送が「うちは納得できん!」わけがない→『戦時船史』を造るときにどんな時代だったか、を郵船さんに「渺渺録」で回想して欲しい→そもそも私の船の話を聞きに行く、というのが主体性の無さになるので、ほんとうはそんなことすべてわかっている、わるい確信犯の話、である、しそうしたい
→二次創作をしたいけど、やはり擬人化を描くのが好き、歴史が好き→一次創作は指数にする寄せて描くものが無いので絵が歪む、阿部隆也はたれ目に描かねば…みたいなものがない
→思念は、思ったことは作品にして、読者の皆に食わせるしかない→1971年に出来る戦争の回顧、という主題は作品にしないと他者にはちゃんと通じないだろう→やはり御社が「ツケを払って」くれる話にしたい(失礼な感想)
→ゲ謎はいい映画、「国が滅ぶぞ」「ツケは払わなきゃな」はすごい、2000年代のアニメだったら『ハーモニー』の最後みたいに滅んでた→世界が滅ぶことを美しいと思わない感覚が最近の作品には出てきた
→『戦時船史』もすごいけど同『資料』の方がすごい、デジコレで読める→船で編む、ことも特殊な業界だと思う、乗組員もいたはず、乗組員の本も勿論あるけれども…→重工さんにとっては艦艇、貨客船、軍縮で自沈、商船改造空母も愛しいふね、郵船さんにとっては貨物船や貨客船が愛しい船
→日本郵便…というか逓信省の組織史に浅間丸が掲載してある、物流としては逓信省にもかかわりがある、そのような世紀を描いていきたい→説教くさいのは描きたくないが時代を自省したものじゃないと…昔ってサイコー!だと危うい→高島屋さんがこの国の威信を美術を持って設計していると良い、緞帳をつくる、貨客船が美しかったことの意味、を描いていきたい
→李良枝はどちらにも属せなかった…というよりそこに属せない自分と周りの齟齬が痛い、周りとの差がギリギリと痛い、がある→それがおお振りにある気がした、んだけど…→実は15巻あたりとか辛くてよめなかった→負け試合の野球の「あ~~~……」感がつらい、それも登場人物が人間関係のことを考えながら負けているのばかりなので
→『外地巡礼』にも李良枝の話がある→私は「言語が生命を担っている」立場(一円五十銭の世界)に置かれたことがない
→『外地巡礼』に一文がある…「母語と母国語の間で暴力的に引き裂かれるものの物語として読むだけでは足りない」…「日本語を母語と母国語として生きているものは、由煕の言語の苦悶と無縁なのだろうか」…(「由煕」は在日コリアンで韓国留学をして韓国に失望して日本に帰ってくる女の子の話)
→母語と母国語にもなじめない、暴力性に引き裂かれるもの、の苦しみは、特設艦船(軍用艦に転用される商船)にもあるんじゃないか→貨客船として生まれながら横書きの航海日誌ではなく縦書きの戦闘詳報でしか語れなかった船→航空母艦冲鷹=貨客船新田丸は新しい船なので航空母艦になったけど小さい船、輸送船の護衛任務や航空機を運んだりした、でかい戦闘機を発艦・着艦したりしなかった(華の戦闘には加わらなかった)→そこで引き裂かれる思い→でも船は海を往ければ幸せなのではないか?→にせものの軍艦としての名誉、かなしさを掘り下げられればいいのではないか
→美しい時代があったはずなのに戦争があって…→でも美しい時代を生きる為に生まれたのは優秀船舶建造助成施設があったから、という時代でもあった→という視点で「渺渺録」を描く、企業は事情をわかっていた、わるい確信犯→優秀船舶建造助成施設であるぜんちな丸や新田丸を作った、船の設計でエレベーターの配置などを航空母艦に転用しやすい船として造った、でも小さい船だったので、改造しても赤城や加賀のような大型空母にはなれなかった→企業は御国奉公を迫られ助成施設に参加したりした面もあるけれど→海軍に取られた…もあるし、送り出したのもある
→あ、これは全部擬人化の話ですよ!?
→郵船さんが1971年『戦時船史』で回顧してほしい→共に「下っていく」話が書きたい、海で言うなら「沈んであげたい」→「一緒に沈んであげるべきだったよなあ……なあ、浅間丸」という語り掛けが欲しい→映画「風立ちぬ」の原っぱを下る話は、煉獄から地獄へ降りる話なんですかね?→浅間丸と一緒に沈んであげるべきだった、という郵船さん→もちろん夢オチとかで言う、大企業なので沈まないので…→「渺渺録」の郵船さん、主体性くれ~!→海軍さんは貨客船の加害者ではない
→郵船さんは浅間丸が好き、図録の後ろも浅間丸なので→ツケ払わなくてもいいけど、ツケあるんだなという気持ちで生きて行ってほしい→船の話を聞いて回るけど、聞かなくても私が一番分かっていたという話→夢の中でもいいから「一緒に沈んであげたい」
→戦没船をどこに設置するかの話→海軍に取られたのか、優秀船舶建造助成施設で造ったとみるのか→主体性とツケ払が欲しい、「大脱走」では脱走したので
→1948年の「大脱走」の主題は「今とこれからの話がしたい」。1971年「渺渺録」の『戦没船史』では”時には昔の話を”、ですよね
→船で運んだというのはどういうことか?→『阿姑とからゆきさん シンガポールの買売春社会』(阿姑は中国人・からゆきさんは日本人)→本には日本の海運会社の名前が載っている→日本海軍はシンガポールでからゆきさんと会っていた→からゆきさんは運ばれていった、という客体だけで捉えるのではなく、行ったしお国奉公で日本にお金を送金していた、また同朋の海軍の接待を嬉しさを持って接していた
→日本の近代化にあたって女性と石炭の輸出が重要だった→運んだこと運ばれていたこと、そこでなにをしていたのかということ
→やっぱり擬人化関係あるか?となる→けど擬人化の均した感じ、観念の話が好き→あと擬人化100年1代の視点が好き、人間が100年4代で…→何が正解かわからいけど、あの時代にあったことを脱臭して無臭にして書きたくない→時代が好き…というと無条件肯定になる…どちらかというと執着がある→時代・歴史が好き、と言っても本を読んでいるだけなので実際は知らないので、『この世界の片隅に』から研究書を読むしかない
→『HHhH』おすすめ、そういう悩みが延々と書かれている、歴史創作や歴史を扱う人には勧めたい。ナチスの小説を書こうかな…どうしようかな…みたいなことが書かれている。→「彼は名前を呼んだら返事をした実在人物なんだよな」「ナチスの一次資料がナチオタのせいでクソ高くなってるけど買わんでいいかな」とか→小説本編も挿入されている、歴史創作の悩みと歴史創作本編が書かれている→フローベルの話がある「時代考証はある単語、あるいは観念を調べていくうちに支離滅裂な妄想に耽り、切りのない夢想にはまり込んでしまう、がこの問題は真実性の問題とは切り離せない」と書いているみたい
→ちなみに私はこの種の悩みはupnoteに書いている→「大脱走」は2分割ノートになっていて、片方は37000文字ある(すべてが「悩み」ではない)
→「今までは「ふねが沈んだ、だから悲しい」とか「戦争に負けたのでつらい」とかそういう、なんというかストレートな話しか描けなかった。そしてそれらは往々にして機微や繊細さに欠けていた。人の感情は、人生はそんな単純なものではないのだ、人に彩られた企業や船もそんな単純な道筋を進むわけではないのだ、と思いつつ模索している」
「終戦を以てしても戦争が終わらなかった物語を描きたいのだ」
「硝子に書かれた看板文字がスキ」
「美しい貨客船を描くべきか」などなど
→一次創作が描けない→オリキャラ愛は強くはない、私が映画監督でキャラは俳優のような感じ、他人である
→あの時代を描くという気持ちはある→(私もだけど)時代をまったく知らない人いる、その人たちにどう伝えるか→「占領期の日本海運」と言われてわかるかどうか?「氷川丸が南方に復員作業に着く」とか→「華やかな客船文化を憶えている」で伝わるか?という話
→「大脱走」の台詞に「華やかな客船文化を憶えている。同時に各地に棄民同様に打ち捨てられた三等客のことを憶えている。軍隊を憎みながら嬉々として加担したことを憶えている。私たちが社員と船を戦地へ見送ったこと、そこへ船で運んだこと、諸共沈んだこと、沈まなくてもそこで軍属や特設艦艇になったことを憶えている、そして外国で戦火を広げたことを憶えている!戦争は私たちの招いた結末だったのだろうか、これは私たちへの罰なのだろうか」があるが、これを共有できるのか、郵船さんの自省を、時代を読者と共有できるか
→そう考えた時に貨客船を、ベル・エポックを、「美しいものを失ってしまった」という普遍性に焦点を当てて描くべきなのかも→美しいものへの離別、その主題を1945年などで補強する→「大脱走」は不親切、わかっていたけれど
→そもそも戦時下の船員さんは有名ではない、「兵士たち」に含まれない戦場の人→わかりやすさは重要、占領期、船員、戦没船→私はわかるけど相手はわからない「戦没船っているじゃん?」「え……軍…艦?」となる
→企業は本土にあるので、見送った側だし戦没を見ていない→なので一緒に沈んであげたい、も感傷で観念になるかも
→「郵船ビルが接収される!!」に読者はうん?になるかも、それを美しいものを失ってしまった、で持って行く
→あるぜんちな丸の小説「海にありて思うもの」を書いている→3章構成であるぜんちな丸(海鷹)、新田丸(冲鷹)、春日丸(大鷹)、シャルンホルスト(神鷹)の話→シャルンホルストは戦争でドイツに帰れなくなった→『艤装の美』に「異郷での客死」と一言がある→貨客船のシャルンホルストの軍艦の海、日本の海という二重の「異郷での客死」→こういうのも越境文学さがある
→2章目のあるぜんちな丸と冲鷹のはなしが「かずきめ」を念頭に書いた
→冲鷹はきっと病んでいる→新田丸、小型でたいした航空母艦にはなれなくて、どこか輸送船が羨ましい、でも私は軍艦としてしか生きれない→「未だ商船の名残を留めたる特設運送船に対し、すでに商船でない商船改造空母が軍艦であることで優越を誇る海軍という場の、露骨なまでの軍隊ざま、すさまじき地獄ぶり」→「ここではそうあることでしか我々は生きれない」→隠し切れない屈辱と羨望とをその声に孕ませ航空母艦隼鷹の名を呼ぶ冲鷹
→あるぜんちな丸の姉妹船ぶら志”る丸がぶらじる丸のまま戦没しているのも運命を感じる→あるぜんちな丸は海鷹になる、ぶらじる丸は戦没してしまったからぶらじる丸→貨客船のまま沈んだこと→ぶらじる丸はぶらじる丸、新田丸は冲鷹して生きてしまった、ことの悲しみ
→『戦時輸送船ビジュアルガイド2』にある一文「昭和初期、可能な限り欧米のしきたりや技術を取り込んで国威の発露たらんとした「浅間丸」型は、多くの要人や著名人をのせて太平洋を往来し、時代の推移を陰で支え、時には自ら表に立った。日の丸船隊の花形とうたわれながら、それでも現実は順風満帆とはいかなかった。この3隻こそ、日米戦の無謀さを最も熟知していた船だったはずだ。外交とは何か、平和とは如何にして得られるべきか。自らの時代に、忌まわしい流れを別の方向へと変えることはできなかったのか。日本という場所に生き得たものは、果たしてどうあるべきなのか……。暗い深淵で、彼らは今なお自問自答を繰り返しているかもしれない。ただ、空母という戦争の道具になりかわらず最後まで客船という本来の姿を通しおおせたことで、彼らは平和の尊厳を未来まで明快に体現する力を手に入れた。あなたには深淵の声が聞こえるだろうか」は読んで欲しい
→浅間丸はサンフランシスコ航路船、古め、航空母艦の予定もあったけど流れた、輸送船として戦没する、空母にならなかったこと、空母になったら浅間丸じゃなくなる→浅間丸は美しかったものの象徴、私も日本郵船も→浅間丸の図録は妙に厚い笑→「大脱走」も浅間丸に捧げた
→軍艦、艦艇、灰色も書きたい、今なら帝国の時代の軍艦、海軍らしい艦艇が描けるはず→貨客船の話ばかりだけど、やはり軍艦は好き、かっこいい→10年前と今だと擬人化の解釈って変わる気がする→多方面で見るべきものを一つで見るのが擬人化創作、可愛い女の子か凛々いい男の子か→まあキャラを描くことだけが擬人化創作ではないので…
→『『細雪』とその時代』がある、『細雪』も美しかったものが滅ぶ話→『『細雪』と』に藤永田造船の話がある→大阪商船さんが「こいさん」と言ってほしい、船場言葉短歌が欲しい
→おお振りのコンプレックスとトラウマが良い、これらは李良枝に似ている、これをまとめて二次創作が描きたい→社会人パロが似合う、『私の男』第一章が合う、駄目になっている関係性、誰か絶対にバウムクーヘンエンドを迎えているはず
→艦船擬にはトラウマはない、特設艦船擬にはあるはず→海軍は加害者ではない、そう描く気もない、あれはシステムの問題だと思っている→青春鉄道の人間との関係性と時代の捉え方がめちゃくちゃわかる、上手い、青春鉄道もいつか二次創作したい
→トラウマの話、何かを失ってしまった話としての特設艦船、おおふり、『マーダーボット・ダイアリー』がある、トラウマの世紀

※×「にほんゆうせん」/◎「にっぽんゆうせん」:いつも「にほん」で変換しているのでつい発音もにほんになってしまう……。
※阿部君がけがをしたのはたまたまだけど、怪我をさせた選手は昔ラフプレーを続けていた、という設定みたいでした。すみません。
「近代史とか土地とかおふねとか」(スぺースのまとめ)
コヤマさん(X @taka8koya ※今は削除されています)とのスぺースの記録です。(2024/4/23)
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スぺース:twitter.com/samishira/status/17826732768...

つ「SNSでやりとりする割には話した事がなかった」「もくりの代替えが欲しいですよね」コ「もくりがなくなって、企画がしづらくなった」「こうやって話すのは初めてで緊張する」つ「スぺースは初めは緊張するけどそのうち慣れますよ」→つ「スぺース名はこれでよかったですか?」「『戦争』を入れようとして正気に戻った」コ「ナイスぼかしだ!」
→つ「『平凡俱楽部』の話がしたい」コ「記事にまとめたことがある、改めて話すとなると難しいけども…」つ「いろんな描き方で飽きない本」コ「作画技本としても、純粋に漫画としても面白い」「歴史観、エッセイ、戦争以外の日常があり、こうの作品らしい」「本の厚さにしてはぎっしり内容が詰まってる」つ「kindle(電子書籍)にはできないほど詰まってる」
→つ「手書き文字が素敵だと思う」コ「こうのさんの手書き文字が好き」「ガリ版っぽくて良い」つ「『この世界の片隅に』にも(このままの字面で)出てきていたよね」→コ「『平凡俱楽部』の25P『遠い目』の技法がすごい、遠目で見るとイラストになる話」つ「こうのさんは想像力が凄い」コ「発想の転換力が違う、発想が広い人」→「こうの先生の本を全てぎっしり読めたのは『夕凪の街 桜の国』くらいだけど、それでもお気に入りの本」つ「こういう同人誌出してみたい」コ「カラー印刷で用紙ちがい、エッセイと漫画を入れてね…」
→つ「チラ裏に描かれた収録短編『古い女』が好き」コ「話の中身も良い」→つ「コヤマさんに収録短編『なぞなぞさん』をすすめたけれど…」コ「勧められた理由が知りたくなった」つ「たしかにそうだなって」コ「いろんな方に勧められた、コヤマさんは是非と」「なぞなぞさんを読んで私が『なぞなぞさん』になった」「私はこうのさん目線でしかない人間なので…」「こうのさんの返答とか、『狂ってしまいそうになった』とかにいちばん共感できるし、『そうそう』と思いながら、そのまま読み終えてしまった」つ「たしかにそうだなって……なんとなくすすめたけど…」コ「むしろ私に何のレスポンスを期待していたのかが気になった、どの視座からそれを言えばいいのかが気になっていた」→つ「多分だけど、非常に斜に構えて言うと『平凡俱楽部』の中で、全面的に社会性が出ているのは『なぞなぞさん』が一番だった、だからそのままふわっと勧めてしまった」→コ「『他者の介入があって』っていうような…」つ「消費すること!みたいなものが漫画の主題としてあったけど、なぜ勧めた?と聞かれてみたらそうだな、って、すうっと(引いて、私も正気になってしまった)」
→コ「(『なぞなぞさん』みたいなものは)小学校の作文で、いつも書かされていたものだ」「自分の言葉が、綺麗に綺麗にまとめられていく経験はずっとしてきていることなので」「でも好きだし、共感もした、それに本を手に取れたきっかけになったので」→つ/コ「う~~~ん……(各々『平凡俱楽部』を改めて読み始める)」つ「……なぞなぞになってきた」コ「考えれば考える程なぞなぞになる」「不思議で答えが出てこないそのもの、最後に『その正解を考え続けて、今後も私は眠れないのだろうか』とあるけれど、まさにそのドツボに入っていく」「問いかける方として問われる方としてもそうだ」
→つ「短編漫画『なぞなぞさん』は、映画『この世界の片隅に』がウケた時も、こうのさんはこう考えていたのではないか……と感じた。……この言い方センシティブかもしれないが」「すずさん!的な需要をされた時に、こうのさんはこうなっていたのではないか、アニメがみんなに消化・消費された時に……」→つ「ちなみに、これはアニメの前の作品だろうか?後の作品だろうか?」コ「漫画のあと、アニメの前に描かれたものだと思う」つ「漫画ではかろうじてしのげたけれど、アニメではこう考えていたかも……と思った」コ「生の声は出ていたよね」
→つ/コ「……(また読みこむ)」コ「最近悩んでたけど、改めて読み返すとドンピシャなことを考えている」つ「箴言っぽいものがいっぱいある」コ「『そうそう最近このことで悩んでたんだよな』となる」→つ「(『なぞなぞさん』などは)書き文字が上下逆さで描かれているのが良い」コ「そうなんですよ!そこに断絶というか、壁がある」つ「ワンクッションが置いてある」コ「流れで読ませない、という意志を感じる」つ「ずるいよな……」コ「漫画が上手い」つ「つい読んで、謎が深まっていってしまう」
→つ「収録エッセイ『戦争を描くという事』はどうでしたか?」コ「これがいちばん刺さった!」「冒頭の『原爆もの』と『戦争もの』の違いとか」「『いっぱい死んだから悲惨なのか?』とか、最後の『新しい課題』とか、日ごろ頭にあることをしっかり描かれているので、これこれ!となる」「歴史という部分にクローズアップした時にこれがいちばん刺さった」
→コ「あとは巻末の『8月の8日間』が好き」つ「あの絵が上手いやつ」コ「そう、この二つが自分の視線に……日常に近い、特別ではない、すぐそばにあるものの一つが、描画されている」「あるいは創作というところで作品になると、こうなる、こういう考えが出てくる、というのがはっきり描かれている」「特別感がなくて良い」「逆にいうと、あっそんなに特別なんだっていうのが書かれているのが良い」「原爆ものと戦争もの、戦争ものと反戦もの、驚いたこと、原爆を扱うこと、最近で言えば『オッペンハイマー』、扱うことに社会や政治的思想が入り込んでしまう、それは本人にその気がなくても、周りがそう作ってしまう、というのは感じるので」「そういう構図も、自己嫌悪を含めて嫌で、という、そういうところを言葉にしているのが、こちらも勇気が出るし、気に入っている」
→つ「私は出身地がベットタウンっぽくて、場所として魅力を感じていない」「歴史があり戦争もあったけれど、自分の創作・考えるものと地元がコミットしてない」「海も含め、海がない県なので、創作で扱うものが観念的になってしまっている気がする」→つ「そう考えた時にコヤマさんの『いま、ここ』としての広島はすごいし、いいな、意義があるなと思う」コ「環境教育、自分ではどうしようもない生活は大きい」「わたしはここから離れられないから離れた考えが出来ない、それが弱み」「自分がどこで生きてきて、どんなことを考えて生きて来たのか、思い出せる範囲でも現在進行形の範囲でも、その人なりの考えや経験――今はウクライナから避難してきた人など」「私たちはわからないし、話を聞いてもわからない、そういう違いを感じる時が、一番心が痛くなる」
→つ「それはいわゆる当事者性と呼べるもの?」コ「そうだと思う」「歴史を描くことについて言えば、当事者性を考えつつ、それを主観的にではなく、拡散的に伝えられることとして歴史を扱うというのが、絵とか漫画、小説で描いていくものなんだな、と」「原点として、自分の目線の当事者性、相手の目線の当事者性、それを視点的に拡散させて……それを伝わるように、その人の当事者的目線に重ねて考えられるように……自分の当事者としての考えとしても矛盾があまりないように、と考えながら書いている」「それをわかりやすく『普遍性』や『わかりやすさ』というけれど」「一方的に描いてるけど、『一方的な他人の話』として終わらせたくない」「その当事者としての主観、として読めるように」「もし知らなかったら『こういうことがある』、などを知るために、歴史を描くのだと思う」
→つ「最近、李良枝の小説を読んだ」「その妹の書いた後記に似たような言葉がある……似たようなというのが失礼だけど…あと関係がなかったら申し訳ないけど……」「……”温又柔さんは李良枝の文学について、「切実な世界性がある」と言う。しかし、温さんはその言葉の表面から、昨今の風潮のようになんでも「多様性」や「普遍性」へと結びつけて賞揚する読み方には抵抗がある、しかし同時に「在日コリアン」という境遇に還元して語られることにも抵抗したい、と主張する”、とある」つ「多様性と普遍性に収めず、個人的な在日コリアンに収めたくもない、ということを言っている」コ「とても分かる」「どちらか一方・一面的になりたくない、被爆三世であること、普遍性であること、日本中がこんなのだとか、被爆者の状況としてこうだ、とかありふれたものとして捉えてもらうように」「より受け取りやすいのは普遍性・多様性」「一方で、被爆者としての目線、受けた苦しみ、それどちらかにしたくない、それはとてもよくわかる」「その視点を持ったうえで自分の作品として被爆者である目線を持ちつつ」「(創作すべてがそうだろうが)知らない世界に没入していくこと」「歴史を描くといことは当事者性・普遍性と相性は悪いけど……そこを上手く合体させたくない」「どちらかとして見られたくない、『広島の人が描いた広島のことをえがいた漫画』と思われたくない、でも『近代の戦争漫画』としても思われたくもない」
→つ「私にはそういう当事者性がない」→コ「でも、ふねなどを擬人法で歴史を描いてるけれど、ふねと所有会社・造船会社などは、こう、ふわっとしている」「当事者性がどこにおかれるのか、置くなら会社なのか……でも、大きな会社の箱にいくつ置けるのか?というのは定めづらいと思う」「その辺に、確固たるものがないのは当然」「それでも津崎さんの漫画『大脱走』は、その中で彼らがどう生きどう考えたのか、漫画・ビジュアルものとして、総合して伝えていくパワーがある、そこが好き」つ「え!?恥ずかしい」コ「当事者性とか普遍性とかで地面に足をつける、私はここ、私はここ、それがクロスしたところを描くのではなくて」「海なら海、森なら森を描く、それを上手くできている、それを読ませる引き込ませるものがある」「自分が読みながら、自分がそれをどう捉えられているのかを考える良い機会になる……それは消費にもつながるけど」「造船会社、ふね、書き手のきもち、で読んでみることができる」「なんにもないことが、わるいことでもない」「その場面、世界を、良い意味で平面的に描けているのが良い」「盤面の配置が上手い、そこから見た視線ではなく、広いので良い、余白に繋がる、そこが好きで特徴的だと思う」「『美しい』というものにこだわりと感じる」「美しさ、というものの在り方のこだわり、色彩にも感じる」→コ「皆さん、すべてウェブで公開されているので……」つ「告知をありがとうございます…笑」
→つ「私も褒めたい」「まず関係ないところから私も褒めると、pixivの整理が上手い、私のは読みづらいので」「読者に優しい、それがなによりも重要」「そして内容では、皆さんが思案する表情をするのが印象深い」「たとえば『エピローグ』では、ほわっ…とした表情をしている、あれが心に残る」「表情が広がっていって、その広がりが茫漠な海へひろがっていく、世界へ広がっていく、空も海もふろい、ひろがりがある」→つ「徴用船舶をどう料理するのか楽しみ……料理するというもの失礼だけど」コ「どう描こうかなとなっている」「船舶中心で描こうと思ったけど、向き不向きの関係で、自治体側から書こうと思った、白紙も船の徴傭も、お達しと仲介をするのが、当時の自治体の役目だ」「そういう側面から書こうかな、と構想から視点・カメラを設置する場所は定まってきた」「そもそも近現代史が勉強不足なので」「どういう作品で、何が描きたいんだろうと考えている、今年いっぱいは充電期間だと考えている」「船に関しては先輩がいっぱいいるので…笑」「『戦場に連れて行った側』を描く」つ「『連れて行かれた側』というよりも」コ「自分の漫画『みなと』が起点」「港からは出ない、見送るだけ、一番の芯として描くと思う」「今までは言いたいことをなんとか形に描いてきたきた、これを描こうとテーマを決めて書こうと思ったのが初めて」
→つ「『みなと』を今読んでいる、きれい……というと、失礼かも」「褒め言葉で『きれい』『美しい』を多用するのは……と悩んでいる」コ「嬉しい」「海は綺麗に描きたい、しけでもドサ衛門があっても海は綺麗」「暴力的なまでに不変」「岩波書店の『占領期 カラー写真を読む』に被爆後の広島の写真がある」「茶色で何もなくなった地面に、太陽を受けた川だけが綺麗で、戦後の写真では一番印象的」「1946年の写真なので死体は無いけど、残酷なまでに綺麗で」「『占領期』と中国新聞に記事がある」つ「kindleってある?持っている気がする。……あった!」コ「これに掲載されている自信があまりないのだが……ものすごく綺麗な写真で、虚しくなってしまう」「だから綺麗と褒めてもらえるのが美しい」つ「私は海が概念になってるので……海なし県なので……」コ「理想とかああるよね」
→つ「『ドリナの橋』を思い出した」「ユーゴあたりの作家さんの本で、はじめに橋ができて、人びとが通ったり、新婦が悲恋で身投げしたり、戦争が始まって通行止めになったりとか、時代が移ろうて人間が騒いでいても、橋はそこに在る、普遍に」「『これ、橋擬人化じゃね?』となる」コ「橋は破壊されなければ残っているもの」つ「船にも、保存船はあるけどもね……」コ「船は『保存しよう』と思って保存している、常に生活と共にあるものではない」「橋は半ば強制的に人と共生している」つ「人間が何代経ってでも、橋は一代そこに在る……これは擬人化じゃん、と」
→コ「氷川丸と人間の話はどうなった?気になっている」つ「構想すらないが、描きたい」「例えば祖父、父、子がいても、船がそれを一代で担っているかといわれると難しい、そうすると、氷川丸や三笠などの可能性しかない」「船は橋と違って移動するので、船には船固有の歴史がある、橋は固定されて人間たちがうろうろしてる」「船は自分でうろうろして、機銃掃射されたり沈められそうになったりする、船自体が主人公なので」「だから『ドリナの橋』と同じようには作れない」「人間も主人公、船も主人公、しかし橋はじっと支えている、だから人間たちの群像劇がなお一層鮮やかに煌めくのだけど」コ「船は人間と共存し、共に移動する時期があり、保存したら、また今度はその時の歴史がある……各々ターンがある」つ「そう、だから『ドリナの橋』に興奮した!だから私も描くぜ!!とはならない……パクる気はないのだが」「でも人間三代、氷川丸一代の話は描きたい」
→コ「初代こじまの顛末を思い出した」「買い取られて、海洋博物館となり、離れ小島になって解体される、あそこにも人間と船の歴史がある」「最初は人間と共に移動したこじま、博物館になったこじま、埋め立てられたこじま、解体されたこじま、を思い出した」「たしかに関係性が変わる」「橋から得られる人間との普遍性とは違う……」つ「そう、だから良い!!と思いそのまま描くのは、よくないと思った」コ「氷川丸に詳しくないけど、氷川丸にのってた祖父がいて、保存に向けた運動に父が参加して、子どもが保存船にいるとか、そういう三代記がいい」つ「そうそう、今は余生っぽいので」コ「映画『永遠の0』みたいなのだといい」つ「過去からの回想だよね」→コ「読みたい、津崎さんの氷川丸さんが好き」つ「スレてるんですけど…笑」コ「『生き残ってしまった』感がある、地獄を見ながら…人間を見ながら…」「船目線で見ればいろんな人を見た」「戦地に行く人間、失意・復興する人間、平穏とした人間を見ている」「読みたい!」→つ「ただ、長い話は描くのに長く時間がかかる、当たり前の事実に気づいた」「完成した達成感はあるけれど」「私は2年後生きてるか?という話で」「未完になりそうで」コ「そういうのは、明日だって分からないので笑」
→つ「そういう話を描く時に、架空の人間を出すことに、逡巡しないか」コ「ある…ある…」「今は戦前期の広島を描いている、人間も描く、その人に実在性と整合性を持たせるかを悩む」「実在の人間を冒涜してないか、と思う」「先ほどの氷川丸の話をしている時も思った」「モデルがいるわけでもなく……広島だって20万人があの朝まで生きていた、戸籍があったので」「どこまでつき詰めるのか悩む」つ「しかも、それを『描く』ので、それを必然と何十時間(※言い損ねてます)と見つめ続ける、するとうおおお……となる」「それでも描くしかないが…」コ「そう、『なし』がないなら、描くしかない」
→つ「さっき見ていたのが『HHhH』で、ミラン・クンデラのことを挙げている」「”クンデラは『登場人物に名前をつけなきゃいけないのが恥ずかしい』と言っている”、と書いてある」「”しかしクンデラの作品にはそんな恥の意識などはほとんど感じさせないし、そこにははっきりと自覚された直感がある”……と書かれていて」「”架空の人物に架空の名前を付けること、架空の人物を出すことほど俗っぽいことがあるだろうか”とある」コ「わかる…とてもわかる……気になる本だ」つ「誕生日にリスインしていただければね……」コ「なるほどね!?」→コ「恥ではないが、申し訳なさと冒涜感が際立つし、居心地が悪い」つ「しかも、架空の人物が擬人化につっかかったり、怒ったりすると、ああ~~……ああ……(諦め)」コ「ここまで絡めて……くそ~~となる」つ「人間が擬人化に感情をぶつけているとねえ……」「それは『大脱走』では常に感じていた」
→コ「それは歴史を描いていると常にぶつかるもの」「伝記でも学習漫画でもない、空想を、居ないものを書いている」「居ないものを前提として、歴史を描くことの意味と難しさは常にぶつかり続ける」「これは描き続ける限り一生解けない」→コ「戸籍は調べていない、諦めてもらう、情報を切り落としている」「架空の人物を配置をして、さっきのように架空の名前とキャラクターを与えて、死なせる、あるいは生き残らせる」→「……でも、考証云々以前に、実際の人物を出す方がもっと失礼になりますよね……?」→「映画『この世界の片隅に』の考証は語り草」「中島地区の再現の展示が観れる、小林理髪店(という名前だったかな……)の考証の詰め方と実在感はすごい」「そしてそれらが映画『この世界の片隅に』にも存在している、ワンシーン・ワンカットに存在している、創作作品なのに、実在のモデルがいることに、居たたまれなさ悔しさを刺激される……これは傲慢だけど」「それがあるから実在・被実在に躓く」「実際にやってのけてる人(※片淵監督)がいるので」「まああれは人間をえがいているので……でもあれは執念だよなぁ」「その中で失ったものを、生き返らせて、暮らしていた、ということを、残った人が見れるのは、創作冥利だと感じる」「アルバム見ている感じ、それを、時間を越えて与えられるのは誠実で、うらやましいと思う、良いところだよなと思う」
→コ「……まあ割り切って描くだけだけれど」つ「そう!!割り切らないと終わらない」「これが創作だ!となるしかないよね」コ「こういうのを詰めると、切り捨てるものの具体性が増してしまうので」「一つを具体的にすると、これは捨てるのに、これを拾うのか、となってしまう」「なら、まるごと置き去りにする、架空のものを組み立てて捨てる、それが書き手の負担の軽減であり、一つの考え方で落とし前のつけ方だ」
→つ「この話をできてよかった……話す人いないのでね」コ「わかる、なので『平凡俱楽部』も読めて嬉しかった」「こういう話はなかなかできない、オンオフ、同ジャンルでも、政治や思想信条が絡んでくるので」つ「その意味で『HHhH』は読んだほうが良いので是非……」
→「『HHhH』では著者が歴史創作のストーリーを書いて友だちに見せたら『いいね!』といわれたので、『これらに元ネタがあることに気づいた?』と聞いたら『創作だと思った』と返されて、著者が『そうじゃない、ぜんぶ事実なんだよ!』ブチギレるシーンがある」コ「わたしはブチギレるほうだ!」「すっっっごく悔しくなる、自分の力不足を感じる」「でも読み手ってそうだから」「言い方があれだけれど……読者に知識を――前提を求めたらだめだと思った」「『もうご存知だと思いますが』はだめ」「だから『創作だ』と思われてしまう」「……でもなぁ書き手にも限界があるよなぁ」「自分が描きたいところしか描いていないので」「大事なところを省いてしまう」つ「私の『大脱走』もそうだ……」「とりあえず補足ページを作りまくった」
→つ「どうしたら読んでもらえるか、はいつも悩む」コ「わかる、それに作者がこだわってはいけないけれど――出したものがすべてなので――でも読んでもらいたいよね」「『知識を抜きにしても面白かった』『心動かされた』と言われるのは嬉しい」「『歴史は知らないけど』、といわれても、でも、そこから知ってもらえるかもしれない」→つ「筆者は歴史を知っている、でも読者は知らない、そして自分は無意識を前提を作ってしまって……ああ同じことを言っている……読者はぽかんとしている、は、あるあるだと感じる」
→つ「戦争漫画『ペリリュー』が扱われている『なぜ戦争をえがくのか』が目に入ったんだけど」「むしろ、なぜ商業の戦争漫画は面白いと思われて、売れるのだろうか?」コ「(『ペリリュー』の筆者さんが)扱われているよね、描画の意識について共感しながら読んだ」「とにかく売れた漫画だった」つ「『ペリリュー』に普遍性――という言葉を安直に使うのは苦手だけど――があったからなのかな?」コ「歴史以上にキャラにパスがあるのだと思う、私の創作もそうだ」「まずはキャラ、そこから歴史に入る、津崎さんもそうだと思う」「船の名前だって『聞いたことある!』ってなるところからなので」
→コ「あとは書かれているように『体験記ではない』のは大きいと思う、フィクションだから描ける良さを対談では語っているけれど」「漫画で歴史を描くことの答えはここにある」「収束するところが同じでも、道としては違うから、そこで読者の気持ちが掴めるのかな」「体験記は寄り道ができない」「キャラクターを豊かにししてもIFは描けない」→「そう考えると『ペリリュー』も、実際にあった部分から実在性を剥いでつくられている気がする」つ「そう、私は2巻くらいまで読んだけれど、戦場が舞台なのに漫画的な展開だと感じた」「水木しげるの『総員突撃せよ!』のシビアさとはまったく違う」コ「そこに世代のニーズの違いを感じる」「水木しげるが求められた時代と、『ペリリュー』が求められている時代とは――描いていることがあまりかわらないけれど――求めらえる内容が違う」つ「なるほど……私の創作は『読者の不在』が常なので、その考えがなかった……」コ「読者の不在はよくわかる……」
→つ「え…ふふ……それを言ったら、今日マチ子先生は……うーん……」コ「ふふ……」つ「NHKでアニメ化かあとなり……」コ「あれが時代の求めているもののひとつなのか、とは思った」「私は戦国時代を創作で扱ったことがあって」「歴史がファンタジーになる時があって、アジア・太平洋戦争はそのさしかかりであり、その抵抗と受容があったのが2023年末(※ゲ謎、トットちゃん、ゴジマイ)だったのかな、と」「そしてかつ『cocoon』の来年の映像化なのかなと」「せめぎ合いの時代だと感じる、当事者が居なくなる中で……」つ「いや、私は今日マチ子先生が好きで、好きで」「でも……そうか……NHKで『戦後80年』を銘打ってなのか……という、失礼だけれど」コ「でもいろいろ考えさせられるはず、女性にクローズアップされるだろうし」「でも手放しに『お~!』という感じにもなれない」「でもいろんな意味で楽しみ」つ「うんうん」「なんだかんだTwitterに公式アカウントができたらすぐにフォローするはず笑」
→つ「むしろ戦後80年でアニメ化してほしかった作品はある?」コ「『夕凪の街 桜の国』は今こそと思う」つ「時系列も上手い作品だと感じる、読んで一回では理解できなかった」コ「いまだからこそ、その後に経過していく時間のことを、改めて描いても良いのかな」「戦前・戦中は『この世界の片隅に』で呉を描いて」「で、これからだれも居なくなっていく時代で響いてくるのかなって」「……単純にアニメが観たいだけだけれども」つ「いいね、この作品は風化というか、忘れちゃう話でもあるので、今だからこそ、というのは納得」「当事者と、当事者の近くにいた半当事者と、その子孫で構成されている話で」
→コ「『平凡俱楽部』に戻るけど、『新しい課題』彼らの栄誉をかたるところに差しかかる、語るのはだれなのか、というところを考えている」「これは被爆地特有のところでもあるし、継承は大事なので、日本は戦後の教育が上手く行ってないけれど、陸続きなんだ、ということを意識して考えて………アニメ化して欲しい~!」「津崎さんはある?」
→つ「言われてみれば……戦争作品か……」「してほしいというか、『シェエザラード』は帝国郵船=日本郵船の話なのだけど」「とりあえず船員さんの話はもう少し映像化して欲しい」「「氷川丸ものがたり」というアニメがあったりする、DVDはないけど。サイトはまだある」コ「マジですか!?」つ「病院船時代も扱っているみたい」コ「本当だ……これこそ残すべきでは……」つ「すごいアニメだよね……でもこれはアニメ化『した』ものなので」「あとは『最貧前線』の映像が欲しい」「宮崎駿の漫画で、漁船が徴用されて日本列島の下の太平洋に行く、監視役として、漁船なので見つかったらそれで終わってしまう」「これもいわゆる民間の船が徴用される、ではある」「『雑想ノート』に収録されている短い漫画」「本の全編はブタの人間で書かれているけど、『最貧前線』だけは人間の姿で描きたかった、と宮崎駿は言っている」「コミカルに描かれている漫画だけれど、実際は……」コ「短編アニメでつくって、ジブリの森美術館で流してさぁ……となる」
→コ「知ってる人が描くフィクションは背後が見える、水木もそう、知ってるから描けるフィクションがある」つ「でも宮崎駿も、”軍艦とか飛行機とかも調べると頭が痛くなってくる……詳しい人が騙されると嬉しくなりますね!!”と言っている」「宮崎駿はミリタリー人間なので、そういうことを言うと嬉しい……『説得力のある嘘』だよね」コ「司馬遼太郎みたいな、もっともらしく描いちゃうっていう……」「でも関係性が分からないひとがみたらなんのこっちゃになってしまう漫画だ、それが惜しい」「その空白がうめられる術が、埋められる作品が、大きいものではない」「なんで漁船が太平洋の真ん中にいるのか、それが作品として成り立つのか、面白いのか、背景が分からないとなんのこっちゃ、と」「コミカルなら『コミカルな漫画』で終わってしまう……」→コ「宮崎駿は絵が上手い」つ「海が綺麗、上手い」コ「波の線がシンプルなのにあれはちゃんと海」
→コ「そう考えると歴史を描く時にそんな気持ちで描くのも良いのかも、気軽に」つ「そう、あまりごちゃごちゃしても仕方ない」コ「司馬遼太郎が解決することはない、映画『この世界の片隅に』も思惑とは違ったところで消費されている、そのコントロールは製作者にはできない」「もう思い切っても良いかな、と思うけど……自分の気持ちが許さない」
→コ「空想として現実を切りはなすのに耐えかねて、逆に現実を混ぜてみようと実際の人をモデルに作品を描いたことがある」「それが『手』です」「モデルのおばあちゃんがいる」つ「あ……ここで『創作だと思った!!』ってしまうと……」→コ「足掻いた結果、実在性に近づけたら真摯になれるのかと思ったけど、具合が悪くなった、冒涜感が凄いので、それでやめた。試験的作品だったし内容的にも満足が行ってない、けれど実在のモデルがいるので、愛着がある作品」「この辺から諦めようかな、となってきた」「でも映画『この世界の片隅に』の考証にも、やっぱり憧れる」「あ、いたいた、あったあった、と言われる作品は凄い」
→「『この世界の片隅に』は歴史ものであり、すずさんは『そこにいる』とする」「でも擬人化は擬人化創作だよね、となる」「擬人化は観念的なものだよね」「それと、緻密な考証とを合わせて考えた時に…」コ「そう、矛盾する」「そこが難しい」つ「他の人はどうやって折り合いをつけるのかな……って」
→コ「私の作品の場合は、その擬人化そのものが地域に溶け込んでいるもののひとつ」「特殊な存在ではない、軍人に見えるとか庄屋の小父さんにみえるとか、ありふれた風景、写真を撮ったら映り込んでいるかも」「現実よりの上にフィルターを一枚かませてる、だから考証で詰まってしまうのかも」「完全に切り離したファンタジーではない」「でも市民でもないし軍人でもない、じゃあ何者として描くの?となると難しくなるし、躓く」「自治体を擬人化している、とは?」
→つ「私も対象を考えて、そして考証と並行するとね……」「『擬人化もの』として考えればいいのだけど、歴史創作としてそれらが被った時にもやっとする」「変に実在性を詰めると、今度はさっきの架空の人物たちが現れはじめて……」「擬人化にキレたりして、擬人化がメアリー・スーみたいになっちゃって」「歴史に誠実にありたい、でも擬人化を描きたいとなる」コ「そう!」「でも擬人化が書きたい、人間の群像劇ではなく。なぜだろう」つ「なぜだろう、理由が明確になればアプローチも変わる気がする」コ「そう、こだわりポイントがわかれば、アプローチの道筋もわかるので、でもわからない」
→つ「でももしかしたら、橋の一代は『視点』であり、人間三代と橋一代とを考えた時、100年、200年のスパンを一代で見れるのは、擬人化キャラだけだと思う」コ「そうだ、断絶がないんだ、それは大きい」つ「そう。人間たちが戦争したり移ろったり帰ったり行ったりしているのを見つつ、迎えたりとか」コ「だからだ。観測者なんですよね」「私は観測者として擬人化を描いてますね」つ「それを『ドリナの橋』で感じました」「人間は(たった数年で)変わっていくけれど、100年では何も変わらないんだっていう……」→コ「しかも戦争を描く時には、生き残る人を選ばなきゃならないし、その選別は心理的な負担が重い」「それがフィクションでも思う」「それこそ体験記になってしまう」「そういう時に、擬人化・擬人法に拘るのはある、納得した、観測者だ」つ「しかも土地は船より、橋寄りだ」コ「しかも考えようによっては、橋より土地のほうが長命で不動だ」
→つ「『ドリナの橋』もぜひ、図書館にあるかも、いくつか版と訳がある」「『ドリナの橋』のドリナの橋って擬人化じゃんとなる」コ「だから擬人化をするんだろうなが詰まっていると感じる」つ「そう、あとはAmazonレビューも良い、特に『時代も何も超越した存在として』というものが良い、要約もよくできているし」→コ「レビュー自体が作品、Amazonで時々ある」つ「そう、Amazonレビュー文学笑」「…”巨大な時代のうねりは残酷に人を不幸に陥れもするが、普遍的な存在である橋がその側で寄り添い、人の死さえも揺るぎなく支えているようである。”」コ「これ!!」「寄り添うものとしての擬人化を書いている」「刺さってしまってiPadを投げてしまった笑」「死も支える、死と沈むのではなくて、去りゆくものも抱えて存在し続けるんだ」
→コ「そうか観測者か、観測者だ」つ「そこにあって、いつの時代も……」コ「時代を超越した観測者として、擬人化をどう描くかなんだろうな、良いヒントになった」「市民でも軍人でもない何なんだとなっていた時に、もうちょっと切ってもいいかも、抱え込まずに、あれもこれも描かずにしてもいいのかも」「解説回があってもいいかも、そういう表現があってもいいかも」
→つ「そういう意味で土地擬人化は良いなって思う」「会社と艦船はいろんな意味で動く、一応観測者ではあるが、時代も何も超越するかは別であり、『そこにある』とも別である。掴み損ねる」コ「そうだ、だから私は船が描けないのかもしれない」「船舶を掴めない。そこでは観測者としての観点が抜ける」つ「船は土地と橋と比べればむしろ人間に近いと思う」コ「カメラと設置して、人と共に移動できるけど、それは不動なものではない、歴史と共に流れていくもののひとつ」→つ「実際大和なんて数年で沈む」コ「そうですよ、それがいつのまにか宇宙戦艦だし」「愛された船、特異点」→コ「だから船が描けないんだなあ……」つ「『ドリナの橋』も是非」
→コ「観測者は、それこそ初めに話した当事者性と普遍性をクロスしたものを描きたいということ」つ「港から出れないのは、橋も土地一緒だ」コ「出るものではない、広島市が江田島市に行くことはない。私はそれを隔絶、境界線だと思っていたけど、それこそが醍醐味なんだ。これは燈台だ」「そう思うと、オガサワラさんの本はそこから外れている」「あとがきで反省しているが。土地に想いを詰め込み過ぎた、なぜ私は反省するのかわかった、メアリー・スーっぽいというよりも、観測者視点が抜けてたからだ」
→つ「『ドリナの橋』を開いてもいいですか?」「”おおよそ世の中に、人間の社会から切り離されて偶然に出来た建造物などないはずである。建築学にいいかげんな線や根拠のない形などないのと同様、建築物の必要性、願望、評価というものは、人間の社会に発する”……”人間たちの世代がうつり過ぎても、橋はその下を流れる水と同じく不変のままであった。もちろん、橋も老いた。だが、人間の生涯よりも、いや、数世代よりもずっと長い時の尺度に応じてなので、目で見てもその老化はわからない。橋の生命は、不死ではないにしても、永遠を感じさせた。いつその終わりが来るともわからなかったからである”…」「数世代、というのは擬人化では重要」コ「その代とかその一族のためではないということだ」「読みたい、取り寄せればある」

追記・スぺースを聞くのが一番わかりやすいです。要約なので……
追記2・そのうちもう少し加筆するかもしれません。最低限の内容なので。
逆さの羅針儀
#小説

「南下するといえばなんだかオモシロイし、祖国にぶらぶらとぶらさがってそうっと下へとおりていくみたいだけれど、地図をまっ逆さにして、太平洋をうえにしてみたのなら、そう、海ってこんなにひろいのね、って……。思っちゃって。びっくりしちゃって。私、その時まだ内航船だったんですよ」「『はあ……シナではなくてこの大海に行くかもしれないんですか』とききましたよ、でもわかんないって、みんな先のことなんかわかんないよ戦争なんだから、っていわれちゃいました。そうお、じゃあ仕方ないわね、って私も黙って……。船の往くさきもわからないなんて人間たちもどうかしちゃったのねって」「人間が羅針儀にとまどっちゃうのはよくない時って私、知ってたんです。航海の羅針儀もそうだけど、いきなり航路を開きたいだの、意味のない船をつくりたいだの、あと人間たちのいうコムズカシイ政治とかも、……行き先のことです。戦争の往く先にどんな羅針儀をとってるのか、不安にね、なっちゃって」

(橘丸)
『見果てぬ海 「越境」する船舶たちの文学』
1 特設艦艇の「故郷喪失」
#小説

 一九六七年に日本船霊戦没記念会が発行した『戦時船舶文学大系』は、太平洋戦争時の船舶らが書いた文学を論じた文学研究書です。この序文には、以下のような記述があります。
「本書では、日本海軍に徴用されのちに艦艇に改造された船舶、いわゆる特設艦艇の文学を扱うことは、日本海軍の一員として全く違う道を歩んだ艦艇の文学を扱うことになるとの意見が出た」(本書、十頁)。
どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学かという線引きをはっきりさせるためにも、特設艦艇らの文学――彼らの書いた手記や往復書簡、小説や自伝――は除くことにした」(本書、十二頁、太字は筆者による)。
 あえてこのような書き方がなされているということは、日本船霊戦没記念会の会員の間では、『戦時船舶文学大系』で特設艦艇の文学を扱うことも検討されたのでしょう。結局、彼らにとって「特設艦艇文学は艦艇文学であった」ため、特設艦艇文学は『戦時船舶文学大系』から除かれることになったわけですが、はたしてそれが最良の選択だったと言いきれるでしょうか。
 船舶に属しながらも総動員の名分のもと艦艇として生きざるを得なかった特設艦艇らの文学は、戦時下に目指されていた「艦船一体」の思想を紐解くにあたって、非常に有益な研究対象となるはずです。「どこまでが船舶文学で、どこからが艦艇文学か」――この艦船の切り分けに近い思想は、海運が戦時中に被った膨大な被害ゆえに軍を忌避するものであり、同様の不信感が、海運業界の人間らで構成されていた日本船霊戦没記念会にも存在したのかもしれません。
 船舶として受け入れられない特設艦艇の艦霊は、時として艦艇の艦霊として受け入れられないこともありました。興味深いことに、商船から軍艦へと改造された特設艦艇らは、しばしば日本海軍内の艦艇たちに「成り上がり」として認識されていたのです(同時に船舶たちにしてみれば、特設艦艇らは再び船に戻ることのできない「成り下がり」でした)。生まれた時から菊の御紋を頂く軍艦たちにとって、特設艦艇らは急ごしらえの兵役のための船でしかなかったのです。

 航空母艦「冲鷹」乗組員手記会が戦後に編纂した『海浪録』は、貨客船「新田丸」が航空母艦「冲鷹」として戦没するまでを記録した乗員や関係者の証言集です。この証言集からは、貨客船が軍に徴用され輸送艦となり、またのちに軍艦になることの船霊の心情が読み取れます。また、この証言集を補完するのは冲鷹(新田丸)自身の書いていた手記であり、一隻の船、一人の船霊の船生を追うには貴重な資料です。
「貨客船でも輸送艦でも、物や人を運ぶのは変わらないわ。私は海軍でもうまくやっていける、海はいつも優しかった」(二十九頁)と新田丸は日記に書いています。徴用前夜の一九四一年九月初頭のことです。
「快活でいて上品、まさに日本郵船の船、日本郵船のイニシャルを冠するにふさわしい令嬢でした。彼女自身も『新田丸という名前の由来を御存知?』とよく周りに触れて回っていたようです。きっと誇らしかったのでしょう。『輸送艦になると船名は変わってしまうのか』、と彼女に尋ねられたことを覚えています」(一七六頁)という関係者の証言は、新田丸が自身のアイデンティティを貨客船に置いていたこと、またあくまで自身の未来が輸送艦どまりであると信じていたことを示しています。
 しかし御存知の通り、輸送艦「新田丸」は航空母艦「冲鷹」となります。航空母艦時代の冲鷹を示す一番端的な証言は、「冲鷹」乗組員が証言する「大鷹」の言葉でしょう。 

 姉妹艦が心配か、と私は大鷹に尋ねました。冲鷹のそばで大鷹の姿を見ることがしばしばあったからです。大鷹は「はい」と答えました。妹を心配する優しい兄なのだろうと思いました。しかし、ある日ふと私にこう漏らしたことがあります。「貨客船が海軍で貧弱な輸送艦として使役されていくうちに、艦であること、強くあること、強い権威と地位があることを願い、軍艦に改造され、段々と中身も艦になり、艦となって艦船を使役するようになる元船」。「『弱者の身振り』。冲鷹を見ていると、そんな考えが浮かんでならなかった」と。(二六四-二六五頁)

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 ここで私は、太平洋戦争時に徴用された船舶たち、あるいは海軍の艦艇となった特設艦艇たちの書いた私小説や手記などの文学を「後日譚文学」と定義しようと思います。本来船舶が持っていたはずの海運や船としての名前、運ぶはずだった一等乗客の存在は、いわば海の上で生きる彼らにとっては自分の船生そのものであり、その穏やかな海の上は船たちの「国」そのものでした。ところが御承知の通り、あの戦争で船舶らが得たものは、勇ましい鷹としての名前、石油や物資、航空機の輸送、あるいは火の中の海でのごく僅かな戦果と広大な一枚下の地獄だったのです。船舶らの「国」は亡国となり、あの平穏だったはずの海は、大破した艦から漏れ出す石油の燃える苛烈な海となりました。彼らはその新しい「国」に適応せざるを得ない状況へと追いやられ、人間でいうところのディアスポラ――移民や植民したもの――という立場に置かれたのです。
一人の舞踏会
#小説

血と、泥と、波間に被る生臭い潮水と、腐肉の饐えたにおい。美しいワルツを踊った脚で千切れかけた人の手足を跨ぎ、血の海に滑りながらナチュラルターン、一瞬止まってアン、ドゥ、トロワ。リバースターン、小休止、小休止。半歩進んで足が留まる、小休止。小休止。小休止。休みたい。休んでいたい。一生休んでいたい、ほんとうは一生休んでいたいもうこんなところにいたくない、なにも感じずにいたいなにも感じていたくないすべて終わらせたい。でもなにも感じなくなるそれまで走らねばならない、すべて終わるまで進まなければならない僕はこの舞台を降りることはできない、僕はこの病院船を降りることなどできないここで止まったらしゃがみ込んだら諦めたら一生立てなくなる進めなくなる、また再びなるであろうなるに決まっているであろう麗しい貨客船に僕は戻れなくなる。そう己を奮い立たせて一歩おおきく脚を滑らせ、白い太陽の陽が射しこむプロムナード・デッキを狂ったように駆け回る。

(特設病院船・氷川丸)
「船と運命を共にする」ということばは、通常沈没して行く船と共に海底に沈んで行くという意味に取る場合が多い。だが、たとえ船体と生死を共にしなくとも、船の持っていた運命によって、離船後も永くその運命にあやつられるように、数奇な生涯を送らねばならない場合も少なくない。

/『日本郵船戦時船史 上』「りすぼん丸」
愛国丸が貨客船である身を取り上げられつつも第24戦隊として報国丸と特設巡洋艦になり通商破壊をしたけれど、兄が戦没したことでそれも早々に取りやめとなり、その身が特設運送船となるあたりで、ふね、という意識に屈折した斜陽を抱えて、それでも未だ砲と特設巡洋艦という身分とを与えられれば「戦争が無ければあり得なかったはずのこの海」での華やかなりし身は確保できるとかたく信じているんだ、だから軍服をもう一度着させてください、武装をさせてくださいよ、船を拿捕できるし撃沈だってできる!俺にならできるんだ!!やらせてください!!と絶叫するそこにすでに貨客船としての華やかさはない愛国丸 みたいな概念
世界のさみしさ

 貨物や旅客を運ぶためにたくさんの美しい船が造られた世紀をご存知でしょうか。
 20世紀前半まではまだ旅客手段としての航空が発達しておらず、海を越えた国と国を行き交うには船を使うのが一般的でした。船会社の所有する船に乗り、外国へと渡っていくのです。
 たとえばアメリカに行くとすれば、あなたは荷物とパスポートを持ち、横浜で貨客船に乗り海を渡ります。出航の時には皆の別れの挨拶、歓声、笑い声、声、声が混じりあい、汽笛と歓声が響き、五色の紙テープが投げられて、別れを惜しむように後を引くのです。段々と陸は、祖国は遠ざかっていきます。海の色は段々と深くなっていくでしょう。あなたは船上からそれを眺めているはずです。そして船はシアトルやサンフランシスコへと向かうのです。あなたは東北の農家出身の四男で貧しく、亜米利加あるいは南米で食いしのごうとしている日本人移民で、もう二度と日本という祖国に帰って来ないかもしれないし、大日本帝国の外交官として亜米利加合衆国に渡り、かの国を牽制し、逆にかの国の国力を見せつけられて、内心舌を巻きながら帰ってくるのかもしれません。
 船は国と国とを行き交うのですから、国に属す船は国家の船、国家の顔でした。船のサービスすなわち国の礼節、船の清潔さすなわち国の秩序たりえるのです。日本国の、大日本帝国の船は親切で丁寧で洗練されていなくてはいけません。またその船客、一等船客もそうです。それらには著名人も多かったと言います。例えばチャップリンは日本郵船の船を好みましたし、船には皇族が乗ることもありました。
 しかし語るべきもう一つの主役は多くの三等船客の民衆たちでしょう。亜米利加や南米への移民として彼らは船に乗りました。美しい船に乗り美しく旅立ち、果実もまともに実らないような開拓地に行くこともありました。差別と何も育たない畑しかないような異国でやっていくしか生きる方法がなかったのです。だってあなたは不作続きの農民の四男で、姉たちは娘売りに売られていて、働き口も耕す畑も日本には無いのです。この国は貧乏で、人だけが多かったのですから。また、三等船客にすらなれないような、船底に隠れて海を渡る人びとも居ました。からゆきさんと呼ばれる女性たちです。女たちはひそかにふねに乗り乗せられ、朝鮮やシンガポールなどに運ばれて行きます。一つは誘拐や嘘で騙されて、一つは食べるにはそうするしかなかったので。あなたの住んでいる土地は人が多く、畑はやせ細っていてやはり貧しかったのです。のちにからゆきさんという集団名で呼ばれることになるあなたは、人目を避けてその船に乗るのです。船底で溺れようが機関室近くで焼け死のうが女たちは船底から異国へと渡りました。渡された、という方が適切かもしれません。あなたは甘言で騙されて娼婦になるのですから。華やかな世界と共にあった、これもひとつの地獄の情景でありました。

 あなたを乗せるその船はなにより美しくなければなりません。国家の顔なのですから。離別への装置なのですから。旅立ちの美しい瞬間の舞台なのですから。あなたを祝福する五色のテープが、船が美しくないわけがない。たとえ向かう先が地獄だろうがその美しさは誰にも犯せない。
 またそうでなくとも無邪気に人間たちは船を美しく造りたがりました。ふねは人間の道具であり、愛し子だったのだから、というのが私の見解です。設計家のあなたはわが娘を美しく造りたかったはずです。そして生まれたその内装の美しいこと、はじめは西洋に追いつかんとし、基本を西欧式として造られました。細部は髙島屋や川島織物に頼むことがあっても、全体のデザインはやはりフランスやイギリスに注文することが多かったのです。たとえば横浜に現存している日本郵船の貨客船氷川丸は横浜船渠で1930年に竣工、そのアールデコ調の内装はフランスの工芸家マルク・シモンによる設計です。
 氷川丸の竣工から数年ほどのち、戦火が近づき国威の高揚に至っては、モダニズムを孕んだ日本様式を発露せんとして貨客船の内装が造られました。日本人の船は日本式でないといけない!あなたは大日本帝国の臣民で、視察や洋行に行くために日本郵船の誇る浅間丸に乗ります、祖国からサンフランシスコに行く時に、その船の内装が英国式格調の高い古典的なデザインではまったく駄目なのです。あなたはその美しさに見惚れながら、失望して怒りを表明するでしょう。国土の延長たる船で!なんたる国辱!すでに日本は一等国であり、西洋なんぞに随従しているわけではないのですから!
 それでも戦火がちらつき見える世界で、日本人と日本人、日本人と外国人、外国人と外国人は船上で友好を結びました。演奏会やダンスパーティーや赤道祭や船上運動会などのイベントもありました。そこは一つの文化の舞台で、秩序と優しさのある平和な世界でありました。
 あなたは祖国と諸外国との関係に漠然と不安を抱えながら、それでもただ一度だけの今を想いワルツを踊ったでしょう。あなたが何人で相手が何人だろうがここでは関係ないのでしょう。いまここだけなら世界平和の境地なのに、とさまざまな矛盾を無視しながらあなたはそう錯覚したはずです。
 茫漠と漂う爛熟した幸福と、ちりばめられた奢侈な調度品、海の上だからこそなおさら祈らざるを得なかった素朴な平和と友好の念、海を越えた友情の握手――そんなやさしい世界がそこにはありました。あなたは船長で、著名人と並んで写真を撮ったはずです。あなたはスキヤキ・パーティーという日本船の奇祭と箸に戸惑ったでしょう。あるいはあなたはこれから終の棲家となる南米での礼儀や常識の教育と講義を受けたはずです。あなたの夫はあなたの写真を見てあなたを自分の花嫁に迎え、あなたはまだ実際にはまだ見ぬ夫に不安を募らせているでしょう。あなたは船酔いに悩み、あなたは来たるべき新天地に心を寄せ、あなたは置いてきた老父母を想い、それでもあなたは新しい地で生きていくことを決意しました。船は海の上の社交界であり、新しい門出の地であり、祝福でした。
 あなたが愛した千紫万紅を彩る客船文化は花弁零れんばかりに開花していたのです。

 そしてあの第二次世界大戦が始まります。
 たとえばあなたが戦場へ行くとすれば、ふつうは赤紙で徴兵され、徴兵検査を受けて、合格して、万歳三唱で見送られて――となるかもしれません。そしてあなたは千人針と神社のお守りをひそかに胸にしまい込み、兵員輸送船へと乗るでしょう。そうです、たとえば、この兵士を戦地へと送る輸送船です。
 とりわけ南洋に広がった太平洋戦争では、兵隊や物資を運ぶたくさんの船が必要とされました。またその船を運航する人員が必要とされました。徴用船とその船員です。その両者は艦艇と軍人とは違い、軍そのものではありませんでした。運ぶだけの軍属であり、戦闘を行うわけではなかったのです。だからこそ戦場と軍隊のなかでは身分の保証がされ得ず、戦地ではなおさら悲惨な状態へと転落していきました。あなたは赤紙で徴兵されたのではなく、軍属として輸送船ともども徴用されたかもしれません。あなたはフィリピン海沖での輸送任務中に米潜水艦の魚雷で船ごと沈み、仲間をその後の機銃掃射で失い、あるいは溺死で、餓死で、兵士からの虐待で失うか、あなた自らがそれで死ぬのです。あなたが戦場で軍隊のなかで軍人として秩序たらしめられているのと、戦場で軍隊のなかで軍に雇われた軍属であるのとは地位と権威が変わってくるのです。そしてそれは大きく運命を分かちます。もちろんあなたが兵隊であってもあなたには別の地獄があり、悲惨な状況であるのにまったく変わりはないのですが……。
 海軍軍人よりも多くの割合で人員が戦死した、という軍属たちの怨嗟の声は、その華やかであったはずの叙述詩的世界からの転落とその戦地との落差に鮮やかに彩られ、殊更に悲惨に感じられます。
 だからこそ私は戦時下の海運というものをえがこうと思いました。
 美しかった生や美しくなるはずだった未来が戦争という災厄により無残にも失われ、灰色の徴用船や特設軍艦へと装いを変えられて戦場という火の海の中へと向かう元貨客船や元貨物船など(またその乗組員たち)は、私に越境文学的な離別を容易に彷彿とさせました。
 それを悲劇と捉えて消費するそこに一種の危うさがなかったといえば嘘になります。が、それでも私はそれを自分の命題として受容したのです。この世界を、世界の情景を描かねばならない、という想いを抱きました。
 この物語は、無名の多くの人間たちが交差することで成り立つ群像劇でした。
それは企業擬人化という手法で、海運会社の「何も無くなった状態」を描くときに、唯一描けるのが人間模様だったからです。
 成熟した文化やそれを担ったわが船たち、それらが戦禍で失われた状況にあったとき、それでも手元に残ったのは人間たちでした。彼らは、あなたは、生を謳歌し、怒り、嘆き、喜ぶのです。全てを失った企業にあった、人間という淡い希望と重さが描かれています。
 そしてだからこそ、描かれなかったもの、残らなかった人間たちや船の影が本作を通してちらついているのです。あまりに美しかったものの喪失と、それとの離別の世界。
 少しでもあなたにこの世界の”さみしさ”が伝わればいいと思うのです。
#長文
十時便の朝の風の気持ちよさも捨てがたい

 十時便と十一時便、いつも迷ってしまいますね~。県外から越境して横須賀に来ると、大体着くのが九時過ぎになってしまいます。横須賀駅から券売所まで駆け足で行っても、横目で見る汐入桟橋にはすでに十時便の乗客がずらっと並んでいるんです。なのでまあ私が並ぶ頃には列も後方ですよね。これは痛いです。艦を撮るにもいい席が取れないので……。右前方の席に突進する権利を失ったも同然です。
私がコースカベイサイドストアーズの二階入口付近で「う~ん……十時便と取ろうか、十一時便を取ろうか……」などとぼやいていたところ、赤いリボンをつけた可愛い女の子が通りがかって、「軍港めぐりに乗るんですか?」と尋ねてきました。クラスでいちばん可愛い女の子にオタバレしたような後ろめたさを感じたものの、「そうなんですよ~。どの時間帯がいちばんいいのか悩んでしまって……」とつい答えちゃって。で、その女の子は「十時便はもう結構な人が並んでますものね」なんて答えてくれて……。おおっわかってるな!と嬉しくなりました。「十時便を流して十一時便に並ぶのがいちばん良い写真が撮れるのかな」「でも十一時便だと逆光の強さが変わってくる」などと一方的にまくし立ててしまいました。でも私がふと「だけど十時便の朝の風の気持ちよさも捨てがたいんですよね……」と呟いたところ、その女の子はとても嬉しそうにうなずいていまして……。「写真を撮るのも楽しいですけど、船に乗ることも気持ちいいですよね」と彼女は笑っていて、そうだよなぁ、わたしはいつの間にか写真を撮ることばかりに気を取られていた気がする……ととたんに申し訳なさがつもってしまい……。誰に対して申し訳ないんだかわからなかったですけど(笑う)。
 そんなわけで十時便を選び、後方中央の席に座りながら艦艇たちを眺めておりました。こうして見ていると船上の人間たちも面白く眺められるというか、大砲のようなカメラを構えている人、デジカメで慎ましく写真を撮る人、アナウンスに頷く観光客も十分に軍港めぐりの情景でした。レンズ越しに海と艦を見ていると見落としがちなんですけど……。風と船に揺られる感覚がとても気持ちよかったです。
 いつも通り抽選は当たりませんでしたが、なにか良いものに当たった気がしました。思えばあの赤いリボンの女の子が、この船、シーフレンド7ちゃんだったんですかね?

(スターバックスコーヒー コースカベイサイドストアーズ店にて 原晴美)
#小説
ドイツに降伏したフランスから上海で借りパクしてきたコンテ・デイ・リスル号こと「帝立丸」
晴れてフランスが戦勝国になったのでピカピカの豪華客船にして返さなきゃならなくなって、日本の設計家たちがわちゃわちゃして図案を出したのにフランス人が了承しなくて、というのは図案に一貫性が無さ過ぎるのが嫌ッ…とのことだったので、日本側が大会議して結局うまく完成させて引き渡せたらしい
…という話をモチーフに(「史実」に忠実なやつではなく)、「徴用船の収支決算」を描きたい 帝国船舶株式会社とかのやつです
民間船が軍に改造されて、名前を改名させられて、戦場の軍艦として海を征き往くさま、ふねに自我を持たせるのなら植民地主義っぽい、という話をしているし、特設艦船はインターセクショナリティなんじゃないか、と叫んでいるのだけど、誰からも賛同されず、ただの怪しい人間として一人孤立している