渺渺記

思念思索・歴史との距離感…など
良い…と思ったらぜひ押してやってください(連打大歓迎)

船舶擬人化創作漫画同人誌『春のまひる』(2026/2/22発行)の解説文「「春のまひる」解題」です

今の世では「地獄船」と呼称されることとなった貨客船・鴨緑丸をえがくにあたって思慮したことへの言及となります
20260412122440-admin.jpg
映画「落下音」パンフレットに、滞在した空き家の農家にそのまま50年以上は昔の住人のスナップ写真が残っていた(女たちが同じ農家の中庭からこちらを見つめている写真)のを発見したことに触れて、"同じ場所で時間の層が同時に存在すること、誰かがごく日常的なことをしている傍らで別の誰かが人生を変えるような切実な体験をしているというその同時性に惹かれた"と書かれていて良い
  • これは私もよく考える 氷川丸だって80年前は、私が大さん橋方面を眺めているプロムナード・デッキの同じ場所に傷病者を載せていたわけで…
  • 貨客船の次の瞬間に現代の次の瞬間に病院船の瞬間が写し出される氷川丸映画はある
やはり戦争漫画というか戦記や戦場が主舞台の漫画が、いわゆる「スポコン」「青春もの」じみた状態を呈している状況は非常にグロテスクだ
「戦記物を描くつもりがない」(描けるつもりもない)というのは、戦場の実相をわざわざ漫画で模索してもなぁとか、「人間模様をえがく時に戦場だけに物語の重点を置くことに対するある種の非人間的な姿勢」みたいなぼんやりとした忌避感だけど、滝沢聖峰に問答無用で""理解""させられてしまい……
船の越境論

 船に感情というものがあったとしたらという観点に立って特設艦船の心情や悲喜を探ってみたいと思う時がある。特設艦船とは軍隊により接収され改造・改装された船のことで、貨客船・貨物船から小型漁船まで多くの船を網羅する。それら船の共通点は戦わないこと、戦うための船ではないことであり、軍の徴用や買収は戦争への参加を押しつけられた切符であった。多くの船にとっては片道切符となった。早々に戦没する宿命だったからである。
 戦わない船の戦争。
 兵士も民間人も平等の命、一人の人間である。艦が沈んで光栄の上等、船が沈んだら悲しみをもって悼む、という感情はただの感傷であると退けたい。しかしなぜ民間船が、民間船だった艦が戦没することに私は執着するのだろう、と考えた時に思うのは、世界文学への屈折した愛着と、その文学が永遠の命題とする異郷での客死である。あるいはその異郷で経験するさまざまな障害だろうか。自国の常識はそこでは非常識。彼女の話す母国語はそこでは異国語である。移民の彼女はその国に――その海に、その軍隊には容易に同化できなかったかもしれない。そんな二十世紀の人間たちの痛みを同じくアジア・太平洋戦争下の船たちは背負っていたかもしれなかった。馴染んだ横書きの航海日誌ではなく与えられた戦闘詳報で自らの栄光を語るということ。
 船は海を往くことが幸せ、とだけ考えれば、こんな甘い郷愁など抱かなかっただろう。道具は使われてこそ価値がある――それが多少違った使い方であろうとも。病院船はそれでもやはり、いやあるいは、だからこそ(・・・・・)美しかったはずだ。
 けれどそこに船の悲しみを見出してしまうのは、船ぶねの抱く文化の麗しさとそれを基調とする人びとの文化の麗しさにほかならない。それはもちろん貨客船の抱える一等社交室である。そこにあるグランドピアノである。あるいは漁船の上に翻る大漁旗の旗の金刺繍の輝きでも良い。海と共にあった船、と共にあった人びとの抱いてきた素朴な民衆文化は戦火で荼毘に付すにはあまりに惜しいものだった。
 あえてその喪失に美学を見出すこともできただろう。オフィーリアはさいごに水死するから美しいのだ。立ち上がって再び陸に上がることなど到底許されない。あの横たわる退廃的な死のにおい、微睡みにも似た死への緩やかな移行の情景は、憧憬を伴って生者である私たちの想像力を豊かに刺激する。貨客船香取丸はインドネシア海域で雷撃を受け海へと傾斜したとき、サロンにあった大型ピアノが大きな不協和音を奏でながら滑っていった、という……。太平洋戦争開戦すぐの出来事であった。船は陸軍に徴用されていて、陸軍部隊が乗船していた。が、未だ船内には乗組員や平時の物資が乗っていた。そのピアノはかつての栄光を留めているもののひとつだった。船と一緒に海へと転がり落ちてゆく陸軍兵士、乗組員、ピアノ、かつての栄光。沈没したその日はクリスマス・イブであった。
 二律背反たる船の生と船の死という命題は、戦場の船というものを仰ぎ見るときにいちばんの難題となって私たちの心を刺すのだろう。生の鮮やかさと死の沈黙。それは人間を見るときも同様である。人間とおなじようにふねを見るということ。人間のうつわとしてのふね。
 人間の様相を写すものとしてふねを見定めていきたい。
父権的な言説と植民地主義的な言説を融合させた日本の植民者たちは、朝鮮は野蛮な闇の奥にすぎないと宣言することにより、自らの朝鮮征服を正当化した。まるで、男が女の身体は彼によって満たされなければいけない空無であり、男の種が撒き散らされねばならない空虚な空間である、と想定するように。チャのテクストにおいて大地は撒布された種を受け取り、それらと交わることにより新たな命を生み出す。したがって、空無は「充満」し(161)、「蓄積」のない成長、「獲得することのない豊富、充満」が可能になるのである(157)。「血のしみはこぼれ落ちた血を吸収」することができる(65)。
/「中間地点で宙吊りにされて」『異郷の身体 テレサ・ハッキョン・チャをめぐって』

  • 『つぶやきの政治思想』にもこの感覚があったけど(私の理解では)日韓だけでなく、最近は歴史だったり加害-被害についてだったり、その理解の時の「姿勢としての抱擁」みたいなものは思案することがある
  • 抱擁、ではないんだけど、ネタバレだけど「渺渺録」では夢の中で郵船さんが浅間丸と「沈む」話が今後出る(例のボートのシーン) それも一つの抱擁である、

#「渺渺録」(企業・組織擬人化)
『ゴールデンカムイ』一定の視点からなんやなんや言われているのは知っているし理解…もしているつもりだけど、炭鉱を描いた炭鉱に触れた炭鉱という世紀を少しでもまなざした漫画はゴカムしか読んだことが無い……まあ「私が読んだことが無い」だけだけど
鮮血飛び散る話というか、近代の人間たちが流していた血を私が返り血として浴びているという明確な姿勢と意識、そんな近代の創作をしたいのだけど、それをあえて擬人化でやり続けるかを悩んでいる
妄想ですから、資料的価値は無いって銘打ったんですけどね。資料を見て調べて、克明にその通りの飛行機を描くとか、軍艦を描くとかは面倒臭くって、もう頭クラクラしてくるもんですから、大体こんな感じでって、いいかげんにやってるんです。嘘も随分混ぜてますけど、それで非常に詳しい人達がだまされると非常に嬉しいという(笑)。
/宮崎駿「雑想ノートは、僕の道楽なんです」『出発点』
「戦艦土佐のくす玉が割れなかったことを文学的に語り弔うこと」と「次回進水する艦艇のくす玉は確実に割れるように研究と対策をすること」のあいだのあわいを考えている……
いつしか電車に乗ってたらカップルの男女が
男「なんだっけ、総理大臣とかじゃなくて…何々様っていう…」
女「う~ん…天皇?」
男「そうそれそれw」
という会話をしていてめちゃワラだったんだけど、「日本人は戦争を反省していない」とかどうだとかそういう地平線とはまったく別の世界の余地というべきか では「日本人は戦争を反省していない」として、その「反省」をするにはどうしたらいいかを考えた時に、「小学校で歴史をもっとちゃんと教える」とかそういう話"以外の"、もっと別の何か、根本的に別の解決が求められる気がした 電車で…
『記憶/物語』まだ完読できていないが必須本なのでは 戦争を「リアル」に描くということ(「戦争のような、暴力的な出来事を「リアル」に表象したいという欲望」)についても語られている…

そもそも戦争ものを見て一定の作品を「リアル」だと感じるのはなぜか、私は戦場を経験したことがないにもかかわらず、またそれを他人にも意見を聞きたいと思っていたので 良い

最近は歴史・時代もので
①過去の事象の再現をすること
②過去の事象の再現をすることと「リアルさ」は違う、ということ
③過去の事象の再現をすることを創作の至上とすべきなのか?
について考えている
今の性急な情勢にあって、第二次世界大戦というか「先の戦争」といわれる狭義の半ば観念と化してきたあの戦争だけを総括しようとしても難しいという気づきを得た…というか
1941-1945年だとして、これを「最近の日本に存在した悲しい出来事」的~な方向から考えることがもう無理というか
もしアジア・太平洋戦争を描くとしたら「アジア・太平洋戦争が描きたい!!」という気概で描くしかない 日清・日露、第一次世界大戦と連ねる出来事かもしれない
もう1941-1945年は「皆で共有できる大きな体験」でなくなりつつあるんだな…という想いがある
豪華なディナーを作っていた料理人やベーカー、鮮やかな波の上の社交界を支えていた給仕、ボーイたち、航海士や機関員はそうだとしても、それら先進かつ美しき文化の担い手たちが性急な時代の荒波に飲まれて戦火の海にわらわらと落ちていく様、この1から1への移行の過程が未だにいまいち想像できない
  • いつも言うか考えて言わないでいるんだけど あの徴用という出来事についてひとと問答した時にあっさりと「徴兵制を否定するようなものですものね」という言を頂いたことがあって考え込んでしまった、し、なにか一つの指数になっている
  • というのは、あの時代に戦争に参加させられる、という点において徴用だけにすべての「悲劇性」を求めるのは帳尻が合わない、徴兵された兵の死と徴用された軍属の死は――もちろん、戦場という軍隊の主戦場であるがゆえにそこに至るまでの処遇などには差があって、ゆえに後者の悲惨さはなお増すのだが――おなじ1であって、そこにヒロイズムや怒りや悲しみを抱くのはおかしいのではないか、軍属という立場が悲劇なのか死というものが悲劇というべきなのか、そもそもそれを招いたあの時代の戦争行為や軍国主義自体を一考すべきなのではないか、(あの徴兵制を徴兵制の時代を戦争の世紀をどこまで否定すべきなのか?否定できるのか?)という意味なのかな(と、私は捉えた)
  • 軍人によって虐待状態に置かれた、という多くの証言がある もちろんそれを否定しているとか無視しているとかではなくて もしも「悪」だったのは徴用して船員を劣悪な状況に置いた日本軍…だとか、そういう話を私がしたいのであれば、それだけでなくなぜその軍や悲惨な状態の戦争というものがあったのかということ、徴用と同じようにある一人の人間が徴兵されたということ、船員と同じくあの海にいたこと、そして(船員を虐待したかもしれない、いずれにせよ)やはり死んだこと、そうあったこと、あの時代に戦争があったということ、あの軍国の時代を、あの当時の日本というものを考える。その次に局地的な次項としての帝国の海運や戦時下の船員などを展望すべきなのかなーと考えてもいる こちらは私が言葉を頂いた後に考えたことだけど
じつは私は「兵器という大型機械が思い通りすぐに作動しない」描写が大好きで、高射砲がすぐに旋回しない(「アルキメデスの大戦」冒頭にあった記憶)とか、戦車の主砲を向けるのに手力だと時間がかかる(ガルパンにあった)とか、あるいは航空母艦に向けられた急降下爆撃だって爆弾が当たるまでに乗組員たちには数秒の「ア…!」があったはずで、だからといって筆者がこれが好き!と言ってこだわりを持って描いたとして読者のどれほどがそこに美学を感じてくれるのか謎 まだ感情に訴えた方がいい
  • あとこの数秒の「ア…!」にまったく関係のない、例えば一人キャンプが好きで時折漫画を読むのが趣味くらいの読者に、もし私がガチガチに知識があったとして仔細を緻密に描写したところで、それが上手く伝わるのか、むしろ一周回って「こんな世界ありえないだろw」にならないのか考えるときはある
  • 『この世界の片隅に』で最後に子どもを拾う描写を「現代的な倫理観で萎える(うろ覚えだけども、こんな感じの大意)」と投稿していた方がいらっしゃって、そんな感じになる可能性もある(当時「戦災孤児を養子にする」のはよくあることだったが、その事実があまり有名ではない)
とりわけ国擬を読んでいると感じるんだけど、抽象化や「百年を一行に」という意味では擬人化にある魅力のは細部というよりは大枠であって、仔細というよりは一つの詩作に近いのではないか、と …はいえ人間と擬人化の話とかミクロの話が好きすぎる
皆さんご存知だろうけど私は韓国…というか朝鮮史が気になる人間なのでやはり擬をいろいろ見てみたさがあるけど、それこそ「ではあの歴史を一行に」(しかもそこには確かに「私たちと一行に」がある)、って一種の暴力を孕んでいるな~ってこれ国擬オタクが100人に100人声を大にして言ってることだな