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会社が出けるときけば喜うで、そりゃあよかこつ。会社が出くれば、ここらあたりもみやこになるにちがいなか。会社も地も持たんじゃったばかりに、天草あたりは、昔は唐天竺までも出かけて、生まれた村にも、もどりつけずに、そこで死んで。会社さえ出けとれば、わが一代には字の一字も見えんとでござすけん、ああいう所にゃはいりゃあならんが、会社の太うなるにつれて世の中ひらけて、子の時代には学校にゆくごとになって、あるいは孫の時代にゃ、会社ゆきが、わしの子孫からも出てこんともかぎらん。わしどもは、畠も田んぼも持たんとでござすけん、あるいは子孫の代にゃ会社の世話になるかもしれん。そのように思うとりやしたばい。

/「海石」 『苦海浄土』
#「渺渺録」(企業擬人化)
変革主体の形成を問うと言いながら、その時代を生きた人々に「ないものねだり」をする愚かさについては、言う迄もあるまい。けれども、 「資金調達」や「市場」等々について緻密な研究が積み重さねられていっても、それが養蚕家製糸工女・製糸家その他まさに「生きた人間諸個人」を後景に退けた、いわば「おくれた日本資本主義」の再確認(、、、)に帰結するのであれば、それは少なくとも私にとっては何の意味もないのである。 歴史を対象とする研究が「歴史としての現代」 に対する責務から解放されてはならないと考える限り、つまりは我々の未来を展望することにいささかなりとかかわりを保とうとする限り、むしろ「おくれた日本資本主義」のなかで、人々が(、、、)どの様に生き何を形成して来たのか、何を考え、あるいは考えることができなかったのか、そしてそこから人々(、、)が単なる「人々」ではない主体(、、)として自らを形成する道はどの様に展望されたのか、を問うことにこそ《意味》があるのではあるまいか。
 とはいえ、学問研究たらんとする以上、心情主義的に性急に 《意味》を追求するあまり、無意識のうちにも対象化(、、、)を放棄した「情感の海」にひたる様なことは、厳しく拒絶されなければならない。「人々がどう生きたか」を考えるにしても、課題はあくまでも「まさに構造論と結合した民衆史の形成でなければならない」(石井寛治 「産業革命論」同氏ほか編『近代日本経済史を学ぶ(上)』、一九七七年、八六頁)であろう。私が《意味》 を求めようとした問題を力法(、、)として展開しようとしたのが本書の序章第一節であり、以下の諸章はそれなりにその方法をふまえているつもりであるが、それが問題=方法として一貫(、、)しているか、ましてや成功(、、)しているか否かについては、読者の判断にまつほかない。ここでは、先学諸氏の精緻な研究に比べての実証面での粗雑さをある程度意識しながらも、敢えてこうした形で本書を世に問おうとしたわけを述べておきたかった。もっともこの様な言いぐさは、「ひらき直り」ではあっても「申しひらき」になり得ないことは、私としても充分承知しているつもりである。理論的・実証的に、あらゆる角度からの厳しい批判の寄せられることを覚悟し、かつ期待している。

/瀧澤秀樹「はしがき」『日本資本主義と蚕糸業』
#「渺渺録」(企業擬人化)
やっぱり「渺渺録」、三菱企業という岩崎弥太郎の孫息子たちの物語で、岩崎弥太郎の孫娘の沢田美喜を描くとまでは言わないけど示唆できないかな~……。
とウェブを漁ってたら三菱グループのサイトの「みにきて!みつびし」にエリザベス・サンダース・ホームが載っていて笑ってしまった。広義の三菱なんだ……

ttps://www.mitsubishi.com/ja/minikite/vol38.html

#「渺渺録」(企業擬人化)
雁さんはこの宣言を書くかたわら、たきぎを割ったり私の子供をねかしつけたりしながら「君は日本を知らんからそんなくだらんことをいうけど、例えば阿蘇では……」と話した。また、かまどをめずらしがる私の前にかがんで、もはや私は忘れてしまったけれど、なんでも「はじめパタパタなかポッポ云々」といって米をたいた。私は、何はともあれなじまねばならない、この日本に……と燃える火をみつめた。民衆のこの火が朝鮮半島を焼いたことを考えながら。

/「『サークル村』創刊宣言」『精神史への旅 2地熱 森崎和江コレクション』
#「渺渺録」(企業擬人化)
映画版のすずさんの「暴力」発言が、米の延長上の話になっていたやつ、私はあれが好きで、ああいう暴力とか(侵略とか)政治や思想の観念の言葉ではなく、自分の生活の、かまどの、ごはんの、お米を炊いた火の一線上に歴史というものを置けないだろか、と狙ってる 船や船の美しさでやりたい
#「渺渺録」(企業擬人化)
この動員の手段としての「美しさ」というものが貨客船の華麗な美、あるいは軍艦の実直な美にある、その一つ(緞帳や絨毯)を担ってきた一つが髙島屋や川島織物という極めて民間的で、「威信」や武力とは無縁に見える企業であり…
#「渺渺録」(企業擬人化)
髙島屋や川島織物など 船の内装、国家の建築の絨毯や緞帳、あるいは皇族の衣裳などを造ってきたんだけど、その美しい装いに込められた国家の威信、「美しい」ことで示せる威信、「美しさ」で示せる物語、つまりあの時代に国家の示したい物語がありそのために美を以て人々を動員させること

国家の物語、つまり大日本帝国の富国強兵と軍国主義を導入するための「美しいもの」の一つとして装いがあること、その危うい関係を描けないだろうか、創作で、と思っている
#「渺渺録」(企業擬人化)
「八幡は地理的に恵まれておった。今の八幡の発達は、製鉄所が洞海湾内にあってあの膨大な埋立てができたということが一大素因になっておるのではないかと思っております」
『八幡製鉄所五十年誌』の座談会で、元日鉄本社の建設局長はこう発言している。工場用地が必要となったとき、目の前の海を埋め立てれば、たちどころに好きなだけの土地が手にはいるのだった。建設当初は、洞海湾を埋め立ててはいけない、との鉄則があったとのことだが、汚染がすすむにつれて咎めるものはいなくなった。「鉄は国家」だからである。それに製鉄所では、大量に発生する鉱滓の捨て場に困るようになっていた。廃棄物を海へ捨てれば土地ができる。一石二鳥である。鍼滓にどれほど有害物質がふくまれていたにしても、軍事的要請がすべてに優先した。八幡ばかりでなく。釜石でもおなじことが行なわれるようになった。農地が買収されて工場となり、拡張されたエ場が海を覆う過程は、そのまま農民と漁民が生活の場から追いたてられる歴史だった。

/「ある漁師の記憶」第二章 鉄の流れ 第二部 死に絶えた風景 『鎌田慧セレクション 現代の記録 鋼鉄産業の闇』p209
#「渺渺録」(企業擬人化)
「その後一年ばかりしてまた作業を始めましたが、それは、日本とロシアとの間の空気が険悪化してきたからではなかったかと思います。……折からの日露関係の悪化が刺激となって、大きな仕掛けで昼夜兼行でどしどし工場が拡張されていきました」と宿老・田中熊吉が回顧(『八幡製鉄所五十年誌』)しているように、軍事的要請によって建設された製鉄所は、その経済的破綻にもかかわらず、侵略的目的を貫徹するために再開された。「日露戦争は官営八幡製鉄所に対し、もはや従前のように製鉄事業経営の可否や収益などを云々することを許さず、一意軍国の急に応ずるべく軍需への対応を至上命令化した」(『八幡製鉄所八十年史・総合誌』)。
 一九一〇年(明治四十三年)の日韓併合によって、朝鮮の殷栗(ウンユル)載寧(チェーニョン)などの鉄山もまた八幡製鉄所の所管となった。軍事力強化のための製鉄所は、増強された軍事力を背景に、アジア侵略の中心となって、日本帝国主義をささえてきたのである。
 この年、汽缶場は一三六基、五〇〇本の林立した煙突が昼夜の別なく黒煙を吐いた。洞海湾を前面に構えて、中国、朝鮮と対峙している製鉄所を、田中熊吉はこう表現している。
「日本という巨大な軍艦が、もうもうと黒煙をはき、アジアに向かって突進する。全く頼もしい姿なのだ」(『朝日新聞』西部本社版”八幡製鉄物語”)。

/「ゴールドラッシュの末路」第二章 鉄の流れ 第二部 死に絶えた風景 『鎌田慧セレクション 現代の記録 鋼鉄産業の闇』p209
#「渺渺録」(企業擬人化)
炭坑、与論島、からゆきさん、朝鮮人坑夫、三井三池、三井物産、囚人坑夫、ペリー来航、横浜開港、氷川丸、グラバー邸、長崎造船所、八幡製鉄所、富岡製糸場、近代、東京駅、岩崎弥太郎、泰緬鉄道、満州鉄道、日露戦争、鉄、石炭、信濃丸、……うう…
#「渺渺録」(企業擬人化)
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鉄鋼産業の闇
>炭鉱と鉄鋼。日本資本主義の出発地点は、矛盾の坩堝でもあった。
>真っ赤な溶鉱炉の火に魅せられた男たちの夢と挫折。日本の高度経済成長を支えた基幹産業の闇に迫る。

#書籍情報
#「渺渺録」(企業擬人化)
長崎造船所というか三菱重工さんと八幡製鉄所さんの関係性、どちらが偉いとか偉くないとかではなくて(漫画だと八幡さんが偉そうにしているんだけど)、ああいう「戯れ」の関係性なだけ、関係性漫画です
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#「渺渺録」(企業擬人化)
親子

愛おしいがそれはかれらが利益を生むからである、けれどわたしはかれらを誇りを持って造ったし、かれらも誇りを持っているだろう、売ることと売られることに価値があり、売られることと売ることに誇りがある、それは互いに生まれながら既に了承しているものであり、そこににんげんのような親-子関係などはない、その間ににんげんたちの下らない感情を差し入れる隙はない、なぜならわたしはかれらを造ったし、かれらはわたしに造られた、そう、わたしは製造会社であり、かれらは製品である、わたしとかれらはその絆でしかと結ばれている、それでいいのだ、それがあるのだから、にんげんのような血の繋がりや遺伝子の類似に何の意味があるだろう、にんげんたちの下らない感情を差し入れる隙はそこにはない
#「渺渺録」(企業擬人化)
吉村昭先生が『戦艦武蔵ノート』で大和ではなく武蔵だった理由を「民間会社だったから」人間臭さが感じられるので…と答えていて、いつ読んでも満面の笑みで頷いてしまう
 戦争によって故郷へと追いかえされた、と思っているからゆきさんである。兄あるいは弟を「男にしてやりたい」と出稼ぎに行き、幾度かに及ぶ送金で、わずかな田畠であれともかくも自活し、日本土民ふうに根づいているものと思って、その故郷へ帰っている。が、日本の近代化はこの土民志向型のくらしを後進性として位置づけて、帝国主義的国家を確立してきたのである。帰ってみれば日本土民は土民たることに自信を持てなくなっていた。「帰ってこんがましじゃった……」との怒りと悲しみの青音のなかには、実に多面な、思想のカオスのごとき体験がつまっている。アジアへの心のひろがりと国家的侵略。アジア諸民族との接触と戦争。その接触の性のすがた……
[…]
 さて、からゆきさんはその苦界を民間外交などとも言って、事実、まことに深部をえぐる外交を心に感じとってきた。それは近親者などへ少なからぬ影響を及ぼしていることを聞き歩きの折々に感じさせられる。が、その体験さえ、侵略戦争とさまざまな形でつながっている。日本が植民地とした朝鮮へ売られ、売られつつなお「日の丸」であったからゆきさんの話をうかがったりもしたけれど、からゆきさんすら一椀のめしを現地の民衆とうばいあう関係のなかにいたのである。
 海外にうりとばされ、売春を強要され、身をもちくずして彼の地で果てた少女たちの、その苛酷な生涯に対して、なおそのように言わねばならないところに、庶民の生存と国家の意図との宿敵のような関係がある。それは庶民のナショナリズムそしてインターナショナリズムと、国家のそれとのくっきりとしたちがいが、下層民衆のアジア体験の場に浮き出るからである。
 売られることもなく、売春の味も知らずに齢を重ねてしまう私が、からゆきさんと出会うことができる唯一の小道は、彼女らが海の外でアジア諸民族と肌をあわせつつ育てあげた特有な心象世界を、日本への鋭い内部批判として受けとることにある。そしてそれを、彼女らもまたすべての日本民衆と同じように他民族の一椀のめしを叩き落とす存在ともなっていた地点を、見のがしてやるような不遜な立場をつくり出すことなく行うことができるか否か、にある。

/「からゆきさんが抱いた世界」『精神史への旅 3海峡 森崎和江コレクション』



 からゆきさんが海をこえだしたころ、九州を中心にして、別の一群がやはり国をではじめていた。志士と自称した人びとである。かれら志士は「諭書」によらずとも、天子サマを君主に奉ずることを生きがいにするナショナリストであった。かれらを大陸浪人とよんだ人もいた。臣としてつかえたい天皇を新政権にひとりじめされて、こころざしをえぬところの、西南の役の敗者たちだった。かれらは波々の身でアジアの現状をしらべて、新君主につくそうとしていた。その意図は純粋で、一般に支配権力に対して野心をもっているわけではなかった。かれらは、政府の政策は、日本をとりまく情況を正しくみていない、西欧に追従していて、国を危機におちいらせるおそれがある、と考えていた。
[…]
 次元をまるで異にするこれらふたつのからゆきが、それでも、ふと相まみえたときがあった。海を越えた志士たちは、からゆきさんが働く楼を足がかりにしたのである。
「すすんで志士の世話をし」たと『東亜先覚志士記伝』にある。からゆきさんをかれらは娘子軍とよんだ。
  「娘子軍は九州方面の出身の者が多かったが、氷雪肌を劈く西価の購野の奥まで進むに当っても、純然たる日本の服装をなし、僅に一枚のショールを纏うて寒さを凌ぎつつ突進するのが常であった」(『東亜先志士記伝』)

/「天草灘」『精神史への旅 3海峡 森崎和江コレクション』

#「渺渺録」(企業擬人化)